道であるイエスに従って

チア・シード

ヨハネ14:1-6   


「主よ、どこへ行かれるのですか」(13:36)とペトロがイエスに尋ねました。「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる」(13:36)とイエスは答えました。そしてペトロに、イエスのことを知らない、と三度もおまえは否むだろう、と告げました。それに対しての教え、あるいはアドバイスが出てきます。
 
イエスは「心を騒がせてはならない」と弟子たちに言いました。心が落ち着くところをなくしたら、何かを信頼することはできません。「神を信じ、また私を信じなさい」と言うのは、ひとつの信頼の形を勧めているのでしょう。イエスは、イエスの「いる所」を頭に置いて語っています。弟子たちのために「場所を用意しに行く」と言っているのです。
 
そこは「父の家」です。そこには「住まいがたくさんある」のだと言います。それはイエスが保証します。そこは神の国です。神の支配が完全になされているところです。永遠の都であり、輝きと栄光に満ちた、平和な世界です。そこが調ったら、「戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」のだと、イエスは約束をします。
 
「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」というイエスの言葉が、頼もしく響きます。こうしてヨハネ伝が、イエスの十字架を前にして、ありったけの説教と祈りを提示し、イエスの口から出たままかどうかは別として、イエスと共同体との間で交わされた神の教えを、十分に手間をとって語り伝えることになります。
 
共観福音書は、マルコ以来画期的なその文学スタイルによって、イエスの語りを、断片の寄せ集め的編集によって、大部の記録を形成しました。が、ヨハネ伝はそこに、一つのテーマから論じ尽くすような、厚みのある記事を綴ってゆくよう努めたかのように見えます。できるだけひとつの事件を長く、詳細に描こうとするのがヨハネ伝の特徴です。
 
弟子のトマスが「その道」を知りたがっていました。イエスは自分が「道」「真理」「命」であることを明かし、イエス自身が道となってこそ、父なる神へ通ずるのだ、と宣します。とても象徴的な表現であるように思えて戸惑いますが、私たちはいまここで、イエスに従うことをのみ気にかけていればよいのだ、と教えているように覚えます。


Takapan
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