愛が問われている

チア・シード

ヨハネ14:18-21   


聖霊が遣わされ、あなたがたの内にいることになるであろう。だがそれではまだみなしごの状態に過ぎない。そのままではいさせない。告別の説教でイエスが弟子たちに話す内容は、いつも謎めいています。霊があなたがたの内におる、これは未来形で書かれています。みなしごにしておかない、というのも未来形です。
 
これを話しているイエスの時を基準に置くと、もちろんそれは確実に未来の出来事となります。それはよいのですが、みなしごという表現が気になります。ここでいう私というのはイエスのことですから、イエスという姿をとってそこにいることのない様子について、取り残された弟子たちをみなしごと呼んでいると考えるほかはないでしょう。
 
まず、イエスを世が見なくなります。そういう時代が来ます。但し、弟子たちはイエスを見ます。これは未来形ではありません。時に左右されず常にそうだとも読めます。つまりそれが真理である、とも。そう、イエスは常に生きています。これにより弟子たちも生きるようになる、これは未来形です。邦訳ではこの区別が曖昧でもったいない気がします。
 
かの日、つまりイエスが再び来て神の計画が完成する特異な時に、きっと人間にも、父と子とそして己れとのつながりが認識できることになると言います。もちろんそれは未来形です。その時は、イエスですら弟子たちの内にあるのであり、弟子たちがイエスの内にいるのも確かです。まことに神秘的ですが、一つになるという捉え方でしかいまは分かりません。
 
内にあるというこの合一は、愛するという概念の中でこそ成立するのだと思います。私たちは愛について、ヨハネ共同体の中では、戒めという考え方で受け止めています。何よりも大切な唯一の新しい戒めが、互いに愛し合うということでした。これがヨハネの仲間の強調点です。愛という言葉にこめた、独特の意味であり、生き方なのでした。
 
私たちこそ、いま迫られているのではないでしょうか。キリストの名を掲げ、キリストに従う弟子と自称する私たちは、いったい愛し合っているのか。それは必ずしも博愛でなくともよいのです。狭い仲間の間であってさえも、愛し合うことができているのか。いったいおまえたちに愛はあるのか、と問われているのではないでしょうか。


Takapan
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