二項対立を結ぶ三位一体の神
チア・シード
ヨハネ14:15-24
二項対立があります。「あなたがた」と「世」とです。でも、二元論だと早まって評してはならないと思います。それらの上にイエスがいます。否、これらの間にいる、と言った方がよいでしょうか。すると父は正に上の存在とすべきでしょうか。そして父から遣わされる弁護者がいて、あなたがたと永遠に一緒にいるようになるという構造があります。
この構図が二元論であるはずがありません。この弁護者は「真理の霊」とも呼ばれ、だから「霊」なのだということを、イエスははっきりと示します。世が「この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない」のに対して、あなたがたは「これ霊を知っている」と言います。あなたがたの「もとに」、そして「内に」います。
ところがここから、霊のことにはもう触れず、「私」と称したイエスが主体となります。イエスを、世は見ることができないけれども、あなたがたは見ます。私たちもイエスを見ています。そして私たちは生きるし、イエスの内にいます。さらにイエスが私たちの内にいます。イエスの愛の戒めを守ることで、私たちはイエスを愛していることを示します。
イエスとは相思相愛となります。「あなたがた」を、こうして「私たち」として受け止めるべきなのです。イエスは自身を私たちには現そうとしますが、世にはそうはしません。何故かとユダが尋ねます。「イスカリオテでないほう」だと断りがあります。ヨハネ伝は、他の箇所でも、いろいろな弟子に発言の機会を与えます。
イエスの言葉を守ることで、私たちはイエスを愛していることを明らかにしますが、それは父から愛されることである、とイエスは言っています。こうして父と子とがその人と共に住むのです。父がそのように登場し、イエスと自分との関係が、父なる神との関係でもあることが明らかにされます。イエスこそ、神と人とをつなぐ道であるのです。
イエスを愛さない者は、もちろん「世」のことですが、当然イエスの言葉を守ることもありません。イエスの言葉を守る人こそ、父が愛する者です。ただそのとき、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)というときの「世」はどうなったのでしょうか。「世」の中にどっぷりと浸かっていた、この私のことではないでしょうか。