二元論を超えた三つの姿

チア・シード

ヨハネ14:15-24   


イエスを愛する者と愛さない者。人間は、この2種類に大別されるようです。イエスの言葉を守る者と、守らない者とです。戒めを受け容れる者と、受け容れない者であり、父が一緒に住む者とそうでない者とです。見事に二分され、そのため非常に分かりやすくなっています。他方、本当にそんな分け方でよいのかという疑念も残します。
 
世界は二つにしか分かれないのでしょうか。それとも、人間の目から見れば、さしあたり二つに分かれるものとしてしか判断できないのかもしれない、というところまで考えておかなければならないのでしょうか。この二分法は、神が共にいる人々と、世との対比によっても説明できそうです。一体、その「世」とは何でしょうか。
 
ヨハネがよく指摘するように、私たちはその「世」とは別のものなのでしょうか。しかし私たちはその世において今生きています。それも間違いありません。世では悩みがあるが、イエスは世に勝っている、とも言っていました。神は世を愛された、と重要なことを述べているのなら、その世の中から私たちは見出され、救われたということにもなります。
 
世との対立というものが、ひとの思う二元論では片付けられない性質のものであるらしい、とは思えませんか。永遠のという基準から見たときに、この時間の中で見たときとの違いが、錯綜をもたらすのでしょうか。イエスが生きて、イエスを愛する者たちが生きるという図式の中で、鍵は、神の言葉を生きた形で内に有っているかどうか、にあるようです。
 
何ひとつ明確に定義することからするりと抜け落ちていくような表現が並ぶ中で、ひとはもう一度、自分を省みることになるのでしょう。このペリコーペだけで、何かが解決するとは思えません。この一つの枝を見つめて、また新たにこの樹について知りたいと求め始めるきっかけになれば、それでよいのではないか、と今止めておくことにします。
 
忘れてはいけません。イエスの願いにより、父なる神は、真理の霊を遣わしてくださる、との約束がありました。これを見ようとも知ろうともしないのが「世」というものでした。まるでSDGsが「誰ひとり取り残さない」を誓ったように、イエスは、あなたがたを独りにはさせない、という神の慰めを伝えました。実に濃いエッセンスが詰まっていました。


Takapan
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