道なるイエス

チア・シード

ヨハネ14:1-7   


ユダが消え、ペトロもまた離れて行く。ペトロからすれば、イエスの方が去っていくのかと尋ねていたのですが、イエスは、ペトロの方が知らないと言うだろうと告げたのでした。果たして心を騒がせていたのは弟子だけなのでしょうか。イエスこそ、その実これから起こることに慄然としていたのではないでしょうか。
 
トマスも不安になります。神を信じ、イエスを進ぜよと言われてもなお、自分の心細さに耐えられません。そこでイエスは、父の家なるものを思い描かせます。そこには、一人ひとりの場所が具えられるというのです。神の世界に居場所がある。これほど心強いものはありません。
 
イエスは再び戻ってくると言いますが、まだ弟子たちの間には不安が過ぎっています。イエスの行く先は父の処です。そこへ至る道があると言います。トマスはその道を知りたがりました。死んだラザロの処に行くというイエスの言葉を聞いて、一緒に死のうと急いた判断をしたトマスです。復活のイエスに直に触れなければ信じないと言ったトマスです。道なるイエスと、福音書の中でトマスは出会うことができなかったように見えます。
 
イエスは自分こそ道だと告げます。人は神とどのようにして出会うのでしょうか。出会うことができるのでしょうか。ヨハネは、イエスを通ってでなければ父なる神と会うことができないというスタンスをもっています。この道を往けば命へ至ります。また、それこそが真理と言えるものです。ピラトが呟くように真理とは何かと尋ねたのでは分からないのです。
 
イエスに従う者には、それがベールを剥ぐように明らかにされていきます。「真理」のギリシア語の響きは、隠されていたものが顕わになる、というものです。いま私たちの言葉で「真理」と言うと伝わらないニュアンスがそこにあるように感じられてなりません。もはや弟子たちには隠されず明らかにされます。
 
真理は人を自由にする、ともイエスは言いました。自由の顕れが愛の行いです。愛の行いは、理由や原因によってなされるものではないからです。互いに愛し合うことが弟子たちには命じられましたが、それは根拠から命じられるものではなく、イエスの弟子における全く自由な選びによりなされるもので、いわば自由が命ずる行いが愛であり、逆説的な構造がそこにあることを認めざるをえません。
 
イエスを通って初めて父のところへ辿り着く私たち。そうして父と出会うことができるのです。いや、神の子なるイエスど出会うことで、すでに父を見ています。目で見るばかりでなく、会うこと・知ること・覚ることなどによる交わりがそこにあります。目の前にイエスが見えているならば、私たちの心はもう騒ぐことはありません。


Takapan
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