互いに愛し合うことで証明されるもの
チア・シード
ヨハネ13:34-35
弟子の足を洗い、食事の席でユダが出て行きます。「夜であった」(30)とのアナウンスが印象的です。ユダが行動を起こしたということは、賽は投げられた、ということです。イエスは、これでイエスが栄光を受けること、またそのことで父が栄光を受けたことを宣言しました。さらにイエスは、自分の姿が見えなくなることを予告します。
たとえ捜しても、イエスの行くところには今は来ることができない、というのです。この場面でイエスは、決定的なことを告げます。「あなたがたに新しい戒めを与える」と。戒めというと、イスラエルでは基本的に、モーセの律法を意味します。それは今や乗り越えられるということのようです。しかも、それはたった一つだけの戒めです。
「互いに愛し合いなさい」という戒めだけです。愛すること、はっきり言ってこの一つだけでも、私たちには困難です。キリストはそれを実行しました。だから、神は人を愛する、ということだけなら、それはそれで成就することになります。しかし「互いに」となると、人のほうもまた神を愛するということを求められていることになります。
ところがここでは、これは神と人との間のレベルのことを言っているのではありません。確かにイエスが人を愛したように、との条件が例示されています。しかし、その条件の下で、またそれ故にこそ、「互いに愛し合いなさい」と、人間同士の愛が命じられているのです。もちろん、命じられたからといって愛せるようになるようには思えません。
でも、イエスから人への愛の故に、人と人とが愛し合えという流れがそこにあります。その結果から、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」とイエスは明言しました。つまりこれは、他の人々へ向けての、神と人との結びつきを示すことの、ひとつの証明となることだろう、と言うのです。