イエスに会いたい

チア・シード

ヨハネ12:23-26   


ユダヤでは過越の祭が始まろうとしていました。そこにはギリシア人も来ていました。イエスに会いに来たのだといいます。弟子のアンデレを通じてイエスのところへ連れてこられます。果たして何を話したかったのでしょうか。イエスが直ちに答えたことには、栄光を受ける時が来た、まるでこれしか眼中になかったかのような答え方です。
 
一粒の麦が死ねば多くの実を結ぶこと、そのように命を捨ててこそ永遠の命を保持できるのだと告げます。そしてイエスに仕えることを勧め、そうすれば自分と共にいて神に大切に扱われるのだというのです。こうした答えで、ギリシア人たちに何が伝わったでしょうか。また、彼らは何を尋ねたのでしょうか。
 
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)には「命」という訳語が三度現れます。原文で代名詞でなく三度現れます。しかし最初の2つはプシュケーであり、最後はゾーエーです。これを同じ「命」という日本語にしてしまったのは、少し残念に思います。
 
ギリシア哲学ではプシュケーは魂とも訳されますが、この生きている心身に関する普通の命のことだと思われます。しかしゾーエーは、定義は難しいのですが、神との交わりによってこそ成立する、神との関係に於いて生きることを表すとしておきましょうか。永遠の命は時を経てなお滅びない、神との関係によって生かされる救いそのものでもあるでしょう。
 
読者は自然とこれを察して読むかもしれませんが、不親切であるような気がしてなりません。イエスは発言の最後に、「わたしに仕えようとする者は」と切り出しましたから、どうやらギリシア人たちは、イエスの弟子になりたいと往ったようです。過越祭に来ていたくらいですから、ユダヤの信仰を尊敬し、心では信じていたように見受けられます。
 
イエスはユダヤ教のラビとして知られていたでしょうから、外国人としての彼らも、自分たちは信仰があるのです、どうか弟子にしてもらえないか、そんな申し出はありえたでしょう。決して物見遊山でエルサレムに来ていたとは思えません。どうしたら弟子になれますか。あなたに仕えたいのですが、どうでしようか。
 
これに対してイエスは、今こそ特別な時なのだ、と答えたことになります。自分は一粒の麦である。これから死に赴く。その後、豊かな実を結ぶことになるだろう。決して一粒のままで終わるものではないのだ。だからこのイエスに従うのならば、永遠の命を与えられ、神のもとで安らうことになるはずだ、とイエスは説いたのかもしれません。
 
イエスに会いたい、と彼らは願いました。「お目にかかりたい」とはよい訳です。見たいのです。心で深く出会いたいのです。ぜひとも人格的な交わりを与えられて、心身供に全て寄せるほどの思いを経験する出会い方をするために、合いたいのです。この真摯な求めが、私たちにあるでしょうか。私たちはイエスに会いたい、と願っているでしょうか。


Takapan
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