復活したのがラザロでないとしたら

チア・シード

ヨハネ11:38-44   


洞穴の墓は、石で塞がれていました。ようやくイエスが来ました。でも4日目でした。イエスの復活の3日目を超えていました。もし信じるなら神の栄光を見ると言っていたではないか。そんなことをマルタにイエスは言っていたでしょうか。マルタには、生きていてイエスを信じる者は死んでも生きる、ということだけでした。
 
ならば、神の栄光を見るということは、死んでも生きるということを示していると理解することができましょう。ここからラザロの復活劇が始まります。解釈者は工夫をし、またイエスの復活とは違うなどと説明します。百人が百人、ここで復活したのはラザロであるとして解釈し、説教をするでしょう。でも、本当にそれだけなのでしょうか。
 
ここへ来るまで、イエスはマルタとだけたっぷりと話をしています。マリアは基本的に嘆くだけでしたが、マルタとの間には対話がありました。マルタはイエスの前に、ラザロの死という事実から少しも離れることがありませんでした。まるで、その心に石が蓋をしていたかのようです。石で閉ざされていたのは、マルタの心だったと捉えたいのです。
 
石で塞がれた頑なな心は、すでに死んでいました。もうだめだと諦め、自分の閉ざされた心の中で話を完結させていました。もう臭うとイエスの声を聞かずに返し、石を動かすのを拒みました。心を閉ざしている人は、こうして心を開かせようとすることに対して何かしら言い訳をぶつけ、なんとか心が開かれないようにと防御するのです。
 
イエスは、自らではなく、人を使って、石を取り除かせました。イエスの命じた言葉で動いた人がいます。閉ざされた心を開く役目は、神自身でなく、誰か神の命令に従う人に与えられることがあります。閉じこもった心を塞ぐ石を、誰か人が取り払うことがありうるのです。私たちも、慎重に誰かの心を開くために用いられることがあるはずです。
 
イエスは目を点に向けます。神に、自分の願いを叶えたまえと願います。それは信じる者を起こすためだと言います。さあ、ラザロよ、出て来なさい。取り払われた石の向こうから現れるラザロ、それはマルタの心の奥にある死んだものではないかと考えてみたいと思います。死んでいた、頑なな心が、イエスの言葉で生きて取り戻される瞬間です。
 
この復活は、ラザロという人間の復活を描くものというよりも、マルタの信仰できない心が生きる物語として読んでみる魅力をもっていると考えました。ラザロとは「神が助ける」というふうな意味をもつとか。信じられない、ある意味で死んだマルタの心を、神が助けて生かすその出来事がドラマチックに描かれているものと考えてみたのです。
 
まだその姿は布に巻かれています。傷ついた心がデリケートに包まれています。まだ癒しが必要です。そっとほどくがいい。きっともう大丈夫だ。ラザロが出て来たとはここには書かれていません。死んだ人が出て来たとあるだけです。死んでいたマルタの心が生きて洗われました。自由に解放された魂です。イエスがマルタを癒やし、生かしたのです。


Takapan
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