イエスの涙

チア・シード

ヨハネ11:28-37   


ラザロを喪い、四日も経ってようやく呼んでいたイエスが到着しました。通信手段の限られた時代、このようなことはよくあることだったかもしれません。イエスと深い関わりのある兄弟三人だったようですが、詳しいことは分かりません。ただ、ヨハネはこのマリアを、髪で主の足を拭った罪深い女だとしています。イエスとの関係は、やはり謎です。
 
いい年をした三人の兄弟が一緒に暮らしているなど、曰く付きの関係ではないかと勘ぐられそうですが、実際そうだったのかもしれません。男の兄弟が一人です。経済はこの一人の肩にかかっていた可能性があります。もしそうなら、マルタがこの前の場面で気丈にイエスに信仰を告白しているのは、驚嘆に値するようにも思えるのですが。
 
それに対してマリアは、家の中で泣き濡れていました。周囲の人々の慰めもありましたが、生活は建て直されそうにありません。イエスは、マリアに出てくるように呼んだといいます。直接それが描かれていないので、マルタの言葉を介して伝わるだけです。マリアは立ち上がります。死からの復活をも表現しうる語です。マルタも24節で使っています。
 
マリアはイエスの許に行きます。ここにいてくれたら、死はなかった、と訴えます。これもまた信仰です。周囲の人々は、泣き屋ではないと思いますが、泣いています。イエスは激しい息を吐きます。人々の涙には憤ったイエスでしたが、葬った墓を前にすると、今度はイエスが涙を流します。どうして死んだとして処置をしてしまったのか。
 
人々は、イエスの涙を見ました。ラザロへの愛を感じました。しかしまた、ラザロをみすみす死なせてしまったイエスに、評判ほどではないと思うか、あるいは死なずに済ませられるような能力はなかったのか、と疑う眼差しが向けられました。ともかくイエスの涙は、ラザロへの愛だということは、そこにいた人皆には伝わりました。
 
イエスの本当の思いは、私たちには分かりません。さも分かるとでもいうように考える人は、イエスを操り人形のように得意げに解説するのでしょう。分かったふうな声で雄弁に説くような真似はしたくありません。謎のまでいい。この箇所を開くため、その都度このイエスの涙を、その時の自分の情況や状態で、受け止めればよいのです。


Takapan
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