復活であり命であると祈る

チア・シード

ヨハネ11:17-27   


マルタ、マリア、そしてラザロは兄弟でした。年齢層も、職業や生活も分かりません。ただ「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身」(11:1)とラザロのことを説明していますから、ラザロは「兄弟」に違いないのでしょうが、何か曰くがあるのかもしれません。そして聖書ではマリアこそ重要な役回りを果たしていた、とも推測できます。
 
ラザロが重病との知らせを受けても、イエスは動きません。ラザロが死んだことを察すると、イエスはようやくラザロのところへ行こうとします。弟子たちが「信じるようになるため」に、イエスはこの行程を決めたのでした。さあ、そしてイエスは来ました。人だかりができていました。マルタとマリアをも慰める思いの故でした。
 
マリアは「家で座っていた」といいます。この後マルタに呼ばれて、イエスに会いに出ますが、ここでマルタがイエスを出迎えます。何かと動き働くマルタが、イエスに対して代表の役割を果たして告げます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」後にマリアも同じことをイエスに対して口にします。
 
これは、私たちキリスト者の心すべての代弁ではないでしょうか。私たちも、身内の者が喪ったとき、イエスへ向けてこの言葉を漏らすのです。否、ぶつけるのです。但し、マルタはそれをぶつけても事態が変わらないことを知っています。イエスが神に願うなら何でも神はかなえてくださる、と信じています。それが理由だったのでしょう。
 
イエスさえ、もっと早く来ていればラザロは死なずに済んだものを、と言います。イエスは弁明せずに、「あなたの兄弟は復活する」とだけ力強く告げます。マルタは「終わりの日」への信仰を明かします。しかしイエスこそ「復活であり、命である」わけで、イエスを「信じる者は、死んでも生きる」のです。こうして私は、喪ったもののために祈ります。


Takapan
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