マルタの見事な対応

チア・シード

ヨハネ11:17-27   


弟子のトマスが、私たちも行って一緒に死のう、などと言うから、私たちは戸惑います。弟子たちですら、イエスの行動の意味や思惑などを、全く分かっていなかったのです。ラザロの兄弟であるマルタが、イエスのことを完全には理解していなかったとしても、それが何の問題だというのでしょう。私たちはマルタを誤解していたのではないでしょうか。
 
むしろ、イエスが神に願うならば神は何でも叶えてくださると知っています、などとなかなか言えないことをマルタは言っていると思います。私たちはいつから、マルタは的を外しているなどと偉そうに評するようになったのでしょうか。とんでもない話です。マルタは実に節度ある対応をしていると認識する必要があると思うのです。
 
イエスがラザロを死から救う方であるということを、マルタはちゃんと信じています。イエスは、ラザロの復活を口にしました。これに対してもマルタは、終わりの日に復活すると見事に告白しているのですから、この悲しみの極致において、天晴れな対応をしたと言えるのではないでしょうか。少なくとも、私はマルタに比べるとぼんくらそのものです。
 
イエスはマルタを否定するようなことはしていないのです。イエスこそ、復活だ、命なのだと宣言し、自分を信じるならば死んでも生きる、否本当の意味で死ぬようなことなどないのだと言い、これを信じるか、と問うているだけです。誰に問うのでしょう。すべての人に対してです。いまこれを目にしている私にも、あなたにも、問うているのです。
 
マルタはこの場面で、イエスがキリストであると信じている、と言いました。これ異常の告白があるか、と思えるほどのものです。「このことを信じるか」とイエスが直々に問いました。この私にも、問いました。これに対してどう答えるべきなのでしょう。まずは肯定でしょうけれど、どうも肯定しないような風潮が、近代以降勢力を増しているようです。
 
聖書という文献を研究した結果、復活の記事が史実ではないなどと言い、人間のつくった科学や学問のルールに当てはめて片をつけたつもりになっている、近代人。イエスはその人にも問いかけているはずです。聞こえないのでしょうか。耳を塞いでいるのでしょうか。イエスと出会う体験をもたなかったか、またはそれから逃げているのでしょうか。


Takapan
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