神を冒涜するということ

チア・シード

ヨハネ10:31-39   


あなたは人間なのに、自分を神としている。これが、イエスを石で打ち殺そうとしたユダヤ人たちの正当化の根拠でした。天の神、創造主を父と呼び、その父と親しい特別な関係にあると主張する謎の人物。ついに待ち焦がれたメシアだろうかと匂わせながらも、決してはっきりとは言わない。この人物を、身分を詐称していると非難しました。
 
イエスは初めから「どの業のために」と問うていました。イエスを信用することができない、と彼らが考えたにしても、行っている業を信じるべきだとするのですが、これはどういうことなのか問いかけます。この業を信じることで、父とイエスとの関係も知ることができるはずなのだ、とイエスはヒントを提示します。
 
ユダヤ人たちはイエスを捕らえようとしました。でもイエスはその手を逃れて去ってしまいました。捕らえようとしたのは殺害のためでした。これはどんな場面として描くことができるのか、不思議ではあります。イエスの時がまだ来ていなかったことと、イエスを追い詰めようとしても神の論理がするりと抜けていくことを示しているのかもしれません。
 
ヨハネによる福音書のイエスはしばしば「しるし」を見せてきました。メシアであることの証拠でしょう。それは神の力を示す確かなものでした。ただの奇蹟ではありません。その現象の向こう側に、こちらとつながる根本的な核があるのです。神とイエスの特別な関係が、イエスと私たちとをつなぐものとなりうることを信じたいと思います。
 
イエスは、神のこの事実、そして言葉を託された人々が「神々」とさえ詩編の中で称されているいることを挙げて、人ですら神々の中に関係づけられていると指摘しました。このことから、まして特別な存在であるイエスが神の子であると宣言すること冒涜には当たらないのだ、と説明します。ユダヤ人たちは自分を神とするこの姿勢を憎みました。
 
人間であるのに、自分を神としているのはけしからん。尤もです。いま時代を見渡したとき、現代人がなんと人間を、ないし自らを、膨らませ誇示していることか、改めて省みる必要があるでしょう。私たちは冒涜の極致なのではないでしょうか。人間の判断を神よりも上に置き、自分の思想を真理と誇って止みません。ただの人間なのに。


Takapan
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