逃げろ

チア・シード

ヨエル4:16-18   


あなたがたは知るであろう。自分の身に及ぶ体験をして、深く味わい知る、という意味です。いつから人は、単なる知識で物事を分かったつもりになってしまったのでしょうか。情報を得ればそれで満足だ、と。甚だしい場合には、キリスト教をただ知識として「分かった」と喜んで自分をクリスチャンだという自己愛の強い人もいます。信仰など全くないのに。
 
対象を突き放して距離を置き、眺めることで分かったつもりになってしまう。こうなると自分では分かったと思っていますから、それを否定することも疑うこともしなくなります。こうして人は自称だけの王様となります。無責任な知識に成り下がった情報をただ楽しんでいるようで、その実それに振り回されていることにも気がつきません。
 
創造主であり全能なる神である方が、シオンにいること。そこがかつて異国民に踏み荒らされていた都であったとは思えないほど神の都としてそびえ立つようになること。これを、詩人の如き預言者が歌います。この主こそ、民は逃れる安全な地と見なしうるのであって、エルサレムがまさにそれなのだと預言者は叫びます。
 
豊かな実りのことにまで言及されますが、今ここが民の逃れ場であるということを考えたいと思います。天地が震えるというので、本来逃げ出したい場面です。これが前提になっています。勇敢にそれに立ち向かうこともありえるでしょう。しかし、逃げろという声があるみたいに、この主の懐に逃れよ、と声をかけています。だからこそ、それは逃れ場なのです。
 
私たちの逃れ場はどこでしょう。それはそもそもあるのでしょうか。人によっては、教会がそれだと答えるでしょう。別の人には、忌まわしいような教会のありさまやそこにいる奇妙な人ばかりが浮かんできても、ある人にとっては命の助かる場であったかもしれません。それでいい。すべての人に同じように助けが及ぶわけではないのです。
 
ただ、その助けの本体は唯一の神なる主です。シオンとエルサレムの名が両側から挟むようにして、その中央に、この逃れ場だとか砦だとかいう示しがあります。中央は思想の中核です。だから、神を逃れの先として見る捉え方こそが、このメッセージの中心部であるように考えてよいはずです。キリスト教は、逃げろと教える信仰のメッセージをもつのです。


Takapan
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