聖霊降臨の預言

チア・シード

ヨエル3:1-5   


使徒言行録2章によると、五旬祭の日に大きな物音と共に聖霊が降りました。「一体、これはどうしたことなのか」(2:12)と目撃した人々が言うのを聞き、ペトロと11人の使徒たちが立って事態を説明します。これが、「預言者ヨエルを通して言われていたこと」(2:16)だと言います。ギリシア語訳に基づくので、ヘブライ語と微妙に表現が違うようです。
 
「その後」が「終わりの日に」(2:17)と変わっているのは、さほど大きなことではないでしょう。老人と若者との順序が入れ替わっていました。「すると、彼らは預言する」(2:18)が挿入されているのは目立ちます。「恐るべき日」が「輝かしい日」(2:20)に換わっているのも目につきます。今日は、そのヨエルの預言に注目しています。
 
主は、怒りの日をもたらすと共に、慈しみをも示す時を与えます。終わりの日に恐ろしい光景が見られるのは確かなのですが、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」ことが、私たちへの希望として記憶しておくべきメッセージでもあるでしょう。預言するのは息子や娘である、としていますが、それは普通はそうでない、という理解があるからでしょう。
 
老人にはこの先の夢を楽しげに語ることが似つかわしいとは思えない常識。若者は現実を見据えて鍛えられてゆくべきであって、空想や幻に浸るようなことをしているわけにはゆかない常識。奴隷に神の愛が注がれているというのは皮肉な言い方のようでもありますし、太陽が闇に変わることも、月が血に変わることも、想像しにくいことです。
 
しかし、主の名が人々を救うのです。使徒言行録はカットしていましたが、ペトロの引用に続いてヨエルは「シオンの山、エルサレムに」逃れる者がいることを指摘します。そこには「生き残りの者」がいます。「救われる者」のことです。しかし、エルサレムから救いが世界へ拡大してゆく計画を描きたい、それが使徒言行録の筆者ルカのプランでした。
 
ルカは、ヨエルのビジョンだけで済ますわけにはゆきません。この救いの背後には、やはり神の裁きがあります。ペトロも、悔い改めを求めました。そのとき、ペトロ自身も、主イエスを見棄てたことや、主の前で豪語したことなど、悔い改めるべきことが多々あったことでしょう。これなら、ルカ伝の救いの強調点にも合致していたことでしょう。


Takapan
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