ヨエル書の描く終末

チア・シード

ヨエル3:1-5   


新約聖書で、イエスの弟子たちが聖霊を受けて新しく力強い歩みを始めた記事があります。使徒言行録の初めのほうです。人々が聖霊を受けて奇妙な反応をしていることについて、ペトロは目撃者たちに対してまず弁明をします。それからすぐに演説をします。そこで引用されたのが、このヨエル書の内容でした。神の霊が注がれる情景を描きます。
 
もしこのペトロの説教にこの箇所が使われなかったら、果たして私たちはこのヨエル書に注目することができたでしょうか。ヨエル書とくれば、ばったが国を荒らす預言を思い出すでしょうか。それは主の裁きです。だから悔い改めて主に帰れ。何らかの現実の災害を描くことで、神に従うことを預言者は命じるわけです。
 
他の預言者たちによる書にも、そういう描かれ方はありますが、自然災害を中心に描くということで、ヨエル書は特徴があるように見えます。主が何々をする、というよりも自然の作用のように感じられます。人々の意識が変わります。人間社会だけでは起こり得なかったようなことが次々と起こります。それは、実は主の霊が注がれていたからです。
 
子どもたちは預言し、老人が夢を見ます。若者は幻を見ます。私たちも、預言・夢・幻が、もっと必要なのかもしれません。それは、ただ人間が反省して、人間の知恵で何かをすることではないし、神に従うと口では言いながらも、人間の思いつきですることは、お門違いであるわけです。しかも、このことに気づいたのも、主から与えられたが故なのです。
 
主の霊が注がれたから、イスラエルの人々も変わりました。もちろん、全員ではないでしょう。霊を受ける人はある意味で選ばれた人です。その選びの根拠というものは、私たちには明らかにされていません。とにかく「あなたがた」と神が呼ぶ者がいます。その「あなたがた」と呼ばれたイスラエルの人々に対して、この恵みを与えられたのでした。
 
ここでは奴隷も蔑ろにされていません。天体には異常現象が起こり、世の終わりが来たという緊迫感を与えます。しかし、主の名を呼び求める者は、皆救われるといいます。これは「皆」でよいはずですが、罪を犯したとの自覚が救いにつながります。旧約聖書の逃れの町のように、主の霊を受けた者は、キリストがしっかりと匿うのです。


Takapan
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