裁きと希望はいま

チア・シード

ヨエル3:1-5   


どうしても、ペンテコステの出来事からしか、この箇所を見ることができない。それが新約聖書を知るクリスチャンの性のようです。でもヨエルはここで、裁きの日を想定した厳しい預言を並べた中で、この言葉を発しました。ばったが畑を襲い、オリンピック作物を台無しにするなど、当時は時折起こりえたことでしょう。でも意味は先へ進みます。
 
そのばったとは、ユダを責めてくる大帝国の軍隊を意味していました。それは聞く者にはきっと分かりました。ああ、これは神を礼拝しなくなったこと、偶像にひれ伏したための裁きなのだ。戦争に負けるのは神が弱いなどとするのが常識の時代に、ユダヤ人は、絶対的に神を正しい位置に置きました。そのため、悔い改めることで救われると考えました。
 
事は裁きでは終わりません。預言者は慰めをもっています。復興がある、と宣言するのです。それもまた預言です。それが、このように人々が共有する幻です。主の霊が注がれる。風が吹き、神の息が吹きかけられる。つまり、そこに命がもたらされる。この約束が渡されたということは、ヨエルの預言には希望があるということです。
 
神の言葉を若者は口にするでしょう。いま私たちは、若者の感性を蔑ろにしていないでしょうか。それを信頼し、大切にしなくてはならないことを知ります。老人は夢を見るでしょう。年老いるともはや希望がないかのように決めつけていないでしょうか。老人の思う未来というもの、それを描く老人を、大切にしなくてはならないことを知ります。
 
奴隷だから救われないとか、神に見放された者たちだとか、見なしてよいはずがありません。不当な差別を、私たちはしていないか、胸に手を当てて考えてみるべきです。キリスト教会はずっとこんな差別と迫害をしてきた張本人ですし、今もしているように見えます。さらに悪いことに、自分たちは弱者の味方です、などと言っています。偽善です。
 
必要なのは悔い改めではないでしょうか。主の大いなる恐るべき日が来たときに、主の名を呼び求める者が救われるとありますが、私たちは主を頼り主の名を呼んでいると言えるのでしょうか。残された者がいるとも言います。その人たちと共に仲間意識をもっているでしょうか。愛というものが取り巻いている空間をもてているのでしょうか。


Takapan
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