霊はすべての人に

チア・シード

ヨエル3:1-2   


主を知ることができたら、その後、主が霊を注ぐ。ヨエルの預言は、そのままイエスの十字架と復活の後にペトロの中に響き、ペンテコステの出来事を説明させることになりました。いったい「その後」とはどういうことでしょう。時の流れの前後という概念は、歴史的・時間的な生起を指すことになりますが、果たしてそのように理解してよいのでしょうか。
 
黙示録もそうです。事件に順序というものがそもそもあるのかどうか、問うてみる価値はあるでしょう。順序を記述しているものとして理解してよいのかどうか、疑ってもよいのではないでしょうか。主が霊を注ぐ。すべての肉なる者注ぐというのが元来の表記です。それは動物を意味することもありうる語です。でもここは多く人だと理解されています。
 
この霊は、神の霊です。命を与える霊です。息子や娘は神について語ります。つまり預言をします。老人は夢を見ます。将来の夢など見ることがないようであるのに、夢を見ます。若者はさほど幻など見ないものなのでしょうか。常識に反することが起こる、と読むのが普通かと思いますが、必ずしもそうではないような気がします。
 
というのは、詩的レトリックとしては、相互に入替可能な、類語の並列が多いからです。同じ語を繰り返すのではなく、別の語で表現を変えますが、言っている内容はどちらも結局同じことだ、ということが常態である文化なのです。人は皆、誰でも預言をするようになるし、夢や幻を見るようになるのだ、と言っているに過ぎないのではないでしょうか。
 
但し、奴隷の男女へも注ぐというのは少し気にして見る必要があります。これは人間社会の問題でもあります。また、奴隷というのは、異国人を奴隷にしているというよりも、イスラエル人が帝国などで奴隷とされている様子、あるいは同じイスラエル人同士で一部の人を奴隷にしている様子、そうした場面を想像するほうがリアリティがあるような気がします。
 
神は奴隷という立場であっても、その人に平等に霊を注ぐことをわざわざ告げます。どんな人をも差別しないという姿勢を感じます。神の霊は、人を区別して臨むものではないのです。あらゆる人に及びます。これは慰めとなるでしょう。ファリサイ派のエリート意識をイエスが破壊した精神は、旧約の中にも実は生きていたと捉えてはいけないでしょうか。


Takapan
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