霊が注がれる

チア・シード

ヨエル3:1-2   


使徒言行録のペンテコステ、いわゆる聖霊降臨のシーンでペトロが語ることで知られる、ヨエル書の預言を味わいます。預言書の中には、書かれた時代がおよそ分かるものもありますが、ヨエル書はあまり分からないほうに属します。背景となる事件や出来事も、確証がないと言われています。ただ、捕囚からの帰還を知っているようではある、と見ている人もいます。
 
捕囚から戻るとき、イスラエルは復活したとして、大いに喜んだだろうと思います。しかしそれで鼻高々になるわけではなく、ユダの罪を蔑ろにするつもりは、ここには見られません。神からの離反が、捕囚と滅亡の根底にあると考えています。ここには、イナゴの襲来が描かれていますが、天災が悪いと言いたいのではないだろうと思います。
 
天災を神の罰と見るのは簡単です。しかし天災があったから悔い改めることをするでしょうか。古代ならそうだったかもしれません。それでも、イナゴという表現が、巨大帝国の襲来と重なって描かれていると見てはいけないでしょうか。外国軍こそイナゴではないか、と。
 
これは「主の日」でした。主の審きの時です。そのための悔改めが求められていたのでした。断食をし、聖会を開いて一斉に悔い改めるとき、イスラエルの神がここにいると示され、栄光を現すと預言されました。主はこの民を憐れまずにはおれないことでしょう。民は回復されます。人の故ではなく、神の名の故に。
 
その上で、「その後」に、もう一つの主の日が来ると言います。主は霊をすべての人に注ぎます。すべてというのは文字通りにすべてでないかもしれません。イスラエルの民だけかもしれないし、もっと制限されても構わないでしょう。子らは神の言葉を語り、老人は夢を見ます。つまりは、ありえないことが起こるということです。老人が将来の夢を見るものではないと思われるからです。
 
若者は、やっと現実世界に目覚め、そこで生きていく術を理解し始めたところです。いまさら幻に酔いしれてもらっては困ります。こうしたことが起こること自体が、すでにひとつの奇蹟です。人の世の常識に制限されない出来事が起こるということです。男女の奴隷にもこの霊は注がれます。自由人でないと民ではないという常識の中、不思議が起こります。
 
「その後」の「その日」は、何らかの段階を踏んでから、回復あるいは救いをもたらすことをはっきり告げています。それは注がれた霊によってのことです。霊はもちろん神の霊。神ご自身がひとに及びます。あの聖霊降臨に限定する必要はないでしょう。いまもなお、「その後」でありうるし、「その日」でありうると捉えたいものです。


Takapan
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