自然に向けて預言する

チア・シード

ヨエル2:21-24   


さあ、立ち帰れ。ヨエルはイスラエルに呼びかけます。主の日は近い。衣ではなく、心を裂け。暗闇の日が来る。慄くしかないその日がすぐに来る。しかし、主に立ち帰ることで、主は思い直してくださるとヨエルは慰めます。神はいないのかという、敵からの悪口を悔しく思うヨエルですが、同様に主こそ悔しく思っているのだと感じているように見えます。
 
主は立ち上がってくださる。だから、さあ、大地は楽しみ喜ぶことでしょう。獣も草木も、生き生きと命を得ることになるでしょう。豊かにぶどうが実り、オリーブも油をもたらすでしょう。かつて豊かだったこうした実りが回復するという宣言を象徴として、今イスラエルの民は回復する機会だということを言おうとしているようです。
 
ここに注ぐのは、秋の雨。雨の少ない時季のあるイスラエルにとって、これは作物のためには祝福の雨となります。命を与える雨が注がれ、生き物が生きるようになります。麦、葡萄酒、オリーブ油という祝福の産物が、そこらに満ちることでしょう。全く以て、すべてめでたし、めでたしとなります。神の祝福の大きさを覚えます。
 
ここで私は気づきます。ヨエルは、大地に向けて呼びかけているということに。人間に向けて言っているのではありません。人間は全く相手にされていません。大地と動物と植物とに呼びかけており、それから天候です。ヨエルの目はこうした自然環境へ向かいます。預言者のスタンスと眼差しとしては、珍しいのではないでしょうか。
 
そして人間相手でないということは、そこに罪の要素が入り込まないということを意味します。およそ人が関わってくると、そこに罪が入ります。人間が世界の外に立った気になり、自分はこの事態に無関係であり、責任がありませんよ、と涼しい顔をする時、すでにそこに罪が巣くっています。それこそ正に罪なのです。
 
ヨエルの宣言する回復は、罪を超えたところに何があるのかを教えてくれます。人が影響を与えないところに神の祝福がどのように及ぶのかを示してくれます。日本では、雨は時に災害をもたらすほど恐ろしい力を見せるため、デリケートな表現とすべきでしょうが、御霊の実ならずとも、作物の実りは喜ばしい祝福の結果であると感じます。


Takapan
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