ユダの手紙を再評価しよう

チア・シード

ユダ17-25   


新約聖書の中でも物議を醸したユダの書の末尾を読みます。書そのものの成立はいくらか早い時期と目されているようで、ペトロ書第二がこれを下敷きにして書かれたと研究されているそうです。しかしその比較的早い時期に、すでに異端騒ぎに教会が巻き込まれているということを思うと、心痛く感じます。偽物がはびこっていたというのです。
 
ユダ書の内容が、いわゆる外典と関係があるということで、ユダ書の正典性に疵をつけているとも言われますが、このような偽物、惑わす者たちの出現は、すでに初めの使徒たちが警告していたことであるというところから、このまとまりは始まっています。彼らは不敬虔な欲望に身を任せているだけなのだというのです。
 
筆者は彼らを、分裂を引き起こし、自然なままを重んじ、霊を持っていない輩だと評しています。待てよ。これは今キリスト教界に普通に見られる情況だとは言えませんか。いったい私たちはこのユダ書が聖書に相応しいとかどうとか批評する資格があるのでしょうか。疑いの内にある人々を憐れんでいるのか。火の中にある人を救い出していると言えるのか。
 
一体私たちは、自分を何者だと思っているというのでしょう。キリスト教の世界は、いつからこんなに「偉く」なったのでしょう。聖書を操るほどの権威を手にして、しかも聖書の告げていることに逆らっている。さらにそのことに気づいていない、また気づこうともしない。逆らう自分を、ほかならぬ自分が正当化することさえしているのではありませんか。
 
手紙の終わりに、こんな私たちをも励まし祝福するようなフレーズが向けられていることを、私は非常にうれしく感じます。主は私たちを守り、躓かないようにして下さっています。傷のない者として神の前に立たせてくれるのが、その当の神なのだというのです。私たちはイエス・キリストを主として仰ぎ、この神の恵みに与ることが許されているのです。
 
短い手紙は、もはや章立てすらなされないほどですが、手紙としての形式が整い、主張も首尾一貫しています。私たちの陥っている情況を、的確に指摘していることに改めて驚きます。ユダ書はルターからとは言いませんが、非常に軽く見られている実情がありますが、もう一度読み直し、再評価するべきではないかと強く思うのです。


Takapan
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