なぜ忍耐するべきなのか

チア・シード

ヤコブ5:7-11   


ヤコブの名による、恐らくは説教として通用するメッセージは、行いによる信仰がやたら目立つと思われています。でもよく見ると、初めと終わりは、試練と忍耐を正面から説いています。その中でこその、実際の行いや言動への注意を主眼とするものだ、と受け止めなければならないと思います。何故行いのことを強く言うのか、その背景への関心が必要です。
 
メッセージを結ぶにあたり、忍耐を強調し、じっくり待つことを勧めます。エリヤの祈りにより旱魃が終わったことを告げることへつながるようにして、農夫が雨の時季の収穫を待つ忍耐について触れられていると読めばよいのでしょうか。主は来られる。主が来てすべてが報われる時が約束されているのですから、私たちは待つべく互いに支え合いましょう。
 
かつての預言者たちの姿もモデルとなるし、よい手本となります。但し、裁く方が戸口に立っていることを弁えておく必要があります。創世記4:7で主がカインに、正しいことをしていないなら罪が戸口で待ち伏せている、と告げていました。聖書協会共同訳の引照に挙げられていないのですが、ここも重ねてイメージすることをお勧めします。
 
もちろん主と罪とを重ねて考えるというのは不適切ではありましょう。だが裁き主として罪が、あるいは律法がはたらくことは確かでしょう。新しい愛の掟がキリストの弟子たちには求められています。互いに不平に言うことですら、この裁きの対象となるのです。傍観もよくない。なすべき業を行わないことについての責任さえ、マタイでは問われていました。
 
私たちは、よほど主を信頼して、忍耐するあり方をしていなければならないようです。ヨブの忍耐が持ち出されてもいます。あれに匹敵するような忍耐は、私たちには通常訪れはしないでしょう。それでいて、ヨブ記のラストがあまりに安易な解決ではないかと首を捻る人がいるのも確かです。でも、不条理に不幸な人にそれが慰めになるのでしょうか。
 
世の中には、ヨブのような人が事実います。私たちも明日どうなるか知れません。そして、ヨブのような恵まれた結末をその目で見ることなく死んでいくのです。いや、あのヨブの結末がきっとあるから、と苦しみの中から抜けられない人に、せめて声をかけたいものです。主が来られること、憐れみがもたらされることを、切実に望むものでありたいと思います。


Takapan
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