忍耐の預言者達を範として

チア・シード

ヤコブ5:7-11   


手紙なのか説教なのか分からない形で、ヤコブの名を以て、パウロ派の隆盛に対して大切なメッセージを送る書として書かれたと考えられています。その中では、貧しい者たち、あるいは貧しくされた者たちを頭に置いて語っている、と想定すると、書かれてあることがひしひしと伝わってくるように感じるのですが、如何でしょうか。
 
社会的に追い詰められているのに、さらに、あるいはだからこそ、信仰を守るとなれば、世の中からの責めは必定です。メッセージを結ぶにあたりこの書は、忍耐を覚えてのアドバイスを送ります。やがて主が来る。確かな知らせです。パウロと同じです。農夫の忍耐を挙げることで、質素な生活の中に人に伝わりやすいようにしているようにも見えます。
 
裁きなるものを見越してのアドバイスです。戸口に立つ裁き主のイメージは恐ろしく思えます。戸を叩く黙示録の主の描写は、戸を内側から開けることで、供に食事をするという至福に至るのですが、それでは共に食事をしないならばどうなるのでしょう。戸を開けないなら、どんなことになるのでしょう。
 
この方への信仰は、かつての預言者たちの声に従うのか、そこに範を見出すかどうかにかかっているのかもしれません。預言者たちは、あれほど忍耐したではないか。忍耐の限りを尽くした人々は幸いと呼ぶべきだ。ならば通例あの預言者たちは不幸な生涯を送った人々と見られていたことになります。そう見られて当然であった、と。
 
顧みるに、呼ぶという忍耐の人がいた。このヨブのことは、案外新約聖書に取り上げられておらず、唯一この箇所だけです。ヨブが引用され「ない」ことに注目するだけの価値はあるかと思います。神に正面から義を言い張ったとして、イエスの弟子たちの目からは、あまり推奨されないと見られたのでしょうか。諸書は律法よりマイナーだったからでしょうか。
 
いや、詩編は非常に多く新約聖書に引用されています。だから、稀にヨブを取り上げたということで、その「忍耐」を強調するこの箇所の意図を深く考えてみる必要があるかと思います。新約聖書に「忍耐」については39節にわたり言及されているのですが、その中でヨブを思い出す、あるいはヨブを呼び出すのは、このヤコブ一人なのです。
 
ヨブを含めて、苦難と忍耐の模範としての預言者たちは、もっと私たちの視野に入れてよいのではないかと思いました。これが視野に入る人は、きっと貧しい人です。私たちはいつの間にか貧しさから離れているのではないでしょうか。ヤコブがこの福音を語りかけている相手たちの中に、自分は果たしているでしょうか。点検させられる思いがします。


Takapan
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