来臨を知る機会

チア・シード

ヤコブ5:7-11   


厳しい現実の有様を告げてきたヤコブ書が、終盤へさしかかったとき、総括するつもりなのか、待つこと、忍耐することへしきりに視線を促します。何も道徳を説くわけではありません。主が来られる、これを待つということです。それを、離散したイスラエルの民すべてに送るメッセージであるというわけです。
 
たとえば作物の実りを農夫は待ちます。同じように、主を待てないはずがありません。旧約の文化を受け継ぐならば、そこに裁きの思想が入ってくることも当然のことと考えられます。主が戸口で待っているといいます。カインに対して罪が戸口で待ちかまえているという創世記の記述が思い起こされます。聖書の最初と最後で、待つものが示されています。
 
その聖書の中ほど、つまり中央の重要な場所には、預言書が並んでいます。ヤコブはそこへ目を注ぐように促します。預言者の人生には、忍耐のモデルがあるからです。ヨブを預言者と言ってよいかどうかは知りませんが、ヨブほどその忍耐の名に相応しい人物はいないかもしれません。それほど、ヨブ記はやはり周知の、そして特異な書であったのでしょう。
 
しかも、最後のハッピーエンドについては、果たしてそれでよかったのかと現代では訝る声もありますが、ヤコブでは当然のように良い報いであることを教訓としていますから、当時からヨブ記はそのように受け取られていたのです。安易な結末であるようにも見えますが、忍耐が報われることの希望はあって然るべきでした。
 
ヤコブは、その忍耐がパルーシアまで続くものだとしています。主の再臨のことですが、語義は来臨であり「再」の意味はありません。邦訳でも多くは来臨とあるのでそれでよいかと思います。神学的議論も関わりますが、キリストが受肉したことも一つの来臨であったと言えるでしょうし、だから再びという感覚が即悪いということもないように見えます。
 
ヤコブ書は、手紙というよりも一つの説教であるという見方ができるのですが、イエス・キリストとは誰であるのか、については一向に説かれません。それは既知のことであり、いまさら言い及ぶ必要のないこととされているかのようです。だから、とある説教の一つとして成り立つのであって、今回はそれに触れなくてもひとつの話が終わったということです。
 
キリストを伝える役割をもつ文書ではありません。信徒の倫理的生活へ注意を促すことが目的であるようにしか見えません。その動機として、来臨が持ち出されてきたように見えるのですが、それもまた一つの説教なのでしょうか。私たちは神学的な来臨を知る機会として、振り回されてしまうかもしれません。


Takapan
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