ヤコブ書の真意

チア・シード

ヤコブ5:13-18   


祈りなさい。ヤコブ書の殆ど終わりのところで、ヤコブは「祈りなさい」と繰り返します。信じると口先だけで言うことには何の意味もない、ちゃんと行いで示さなければ信仰は役立たない、と何度も警告してきたヤコブが、手紙の終わりに来て盛んに告げるのは、実践せよ、ではありませんでした。祈りなさい、祈りなさい、と言うのです。
 
私には信仰があります、と豪語しながら、弱い者のために何も動こうとしない者。金持ちを見るとへつらうが貧しい人には辛くあたる者。教会がそんなふうな存在になっていることに厳しい叱責を喰らわせた張本人でした。そのためルターにしても、信仰優先とする考えにそぐわないから、と聖書から除きたいとすら考えたほどの書簡でした。
 
妙な誓いをするな、と忠告したヤコブは、手紙を終える頃と見込んで「祈れ」と繰り返し始め、手紙を結ぼうとしています。これは手紙ではなく説教ではないかという研究者もいますが、それでも最後に「祈れ」とくるのは付け足しではなく、ある意味でこれこそがヤコブ書の真意だったのではないか、と思わせるだけのものをもっているように感じます。
 
祈れ。苦しんでいる人、病気の人は、祈り、また祈ってもらえ。病気というものが、罪によるものだという当時の常識がここにも含まれているかのようにも見えないこともない。でも受け取る側がそう感じているのならば、ある程度は仕方がないかもしれない。また、それとはつながりなく読むことも、できないわけではないと思われます。
 
とにかく「祈れ」ですが「信仰に基づく祈り」という以上は、ヤコブが信仰を軽く見ているわけではないことも分かります。義人の祈りは聞かれるという実例を、誰もが知るエリヤを持ち出して伝えようとしています。雨が降らぬように祈ったというのはおかしな感じもしますが、エリヤはそう求めたというより、アハブ王に主の預言として告げただけでした。
 
完全な7年という枠の半分を、水のない時とする考えは示唆に富みます。完全な時には豊かな水に満ちるはずですから。エリヤがカルメル山の頂上で、かがんでその膝の間に顔を埋めたのは、祈りだったとここではっきり説明しました。当時の人は皆当然そうだと理解していたものなのでしょうか。きっと、当然の了解だったのでしょう。
 
ところで、苦しむ人と対照的に、喜んでいる人は賛美の歌をうたえと言われています。祈りと歌を本当に対照的に別のものにするためではなく、同じものの言い換えだと理解したいと思います。歌うという営みがどう当時扱われていたかについては確証はありませんが、歌うこともまた祈りの別名、祈りの一部なのだと捉えていたいものです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります