富める者への呪い

チア・シード

ヤコブ5:1-6   


主が再び来られる時まで忍耐を、と呼びかけて、ヤコブは一連のメッセージを終えようとします。但し、最後に呪いの如きフレーズで、金持ちを攻撃します。挑発するかのように、さあ来たれ、と文は始まります。金持ちよ、泣け、とぶつけます。凄まじい結論が飛んできます。これから先、つまり終末を迎えるにあたり、酷い事態が襲ってくるというのです。
 
富裕層は教会を支える働きに貢献していることでしょうし、パウロも献金を募る形で紳士的に応対しています。ルカなどは豊かな富をもつ者に呼びかけるように好意的に福音を呼びかけているようにも見えますし、そのため近代のエリート層にもよく馴染んだ面があるとも言えることでしょう。ヤコブの厳しさはどこから来るのでしょうか。
 
手紙では、私の兄弟たち、とここまでずっと呼びかけてきていました。しかしここでは、富んでいる者たち、と制限した呼び方で吊し上げます。投げかけるのは呪いです。読者の中に該当する信徒がいたとすれば、ショックでしょう。それとも、読者にはこうした金持ちがいなかったからこそ強気で述べているのでしょうか。架空の対象を設けて、喚起を促していると取ることもできるかもしれません。
 
そもそもこの箇所が、誰に向けて記されているか、という問題は、書簡を読み取る時に注意すべき問題です。その理解により、意味の取り方がずいぶんと違ってくることになります。ヤコブは果たして誰かに向けてこれを書いているのでしょうか。もしもこれがひとつの説教のようなものとして語られているものだとすれば、より広範囲に、普遍的に人は受け取らなければならなくなります。
 
ヤコブは価値観を突き崩しにかかります。富なんぞは朽ち果てるもの、目に見えるものはその場限りの存在者に過ぎない、金銀は実のところ錆びないにしろ腐食がないわけではなく、永遠の輝きのように人が見るのは錯覚であって、神のレベルから見れば有限ではかないものなのです。自分では栄誉だと思いなしているようであっても、神の基準からすれば罪にほかならないということが多々あるものです。
 
何故に富んでいるのか、それは搾取したからだ、と記者は言いたいのでしょう。搾取された側の苦しみや憎しみ、恨みを神が知っているという事情を知らせます。アベルの叫びが地から響くのだと最初の殺人の際に神が聞いていたのと同様です。万軍の主がこれを知り、全力を以て対処します。神は弱者の苦難をそのままで終わりとはなさいません。
 
自分の身をも心をも肥やすだけ肥やして、己れのみ幸せであればよしとすることができるのは、富裕層に特徴的なことです。この世で力を有するからこそ、自由な欲望を現実化することも容易だからです。そうしてイエスを殺しました。義人たちを殺しました。逆らえない立場の人々を黙らせました。私たちはどこに立っているでしょう。心を肥やして虐げている側に、いつの間にかいないでしょうか。


Takapan
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