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チア・シード

ヤコブ4:13-17   


人は、自分の視点から見える視界を、世界のすべてだと思い間違ってしまうことがあります。自分がどこに立っているかさえ気づかないし、まして自分がその世界の中にいるということなど、思いもよらないということがあるのです。特に近代人はそうです。あるいはヤコブ書が、非常に近代的な観点をあの時すでに有していたのかもしれません。
 
明日どころか、一寸先すら私たちは知ることなく生きています。動物にはそれがないとも言われますが、人は未来を想像するものです。それ故に不安を覚えるし、希望ももちます。それが幸福であるのかどうか、には諸説ありますが。やがて霧のように消えてゆくのである、それも考えれば分かります。少なくとも観念としては、分かっています。
 
否、そうした世界は自分とは別のもの、他者であるとそれでもなお捉えているだけなのかもしれません。ヤコブが指摘しているのは、そうした近代的錯覚の構造です。主が許すのであれば、明日こうさせて戴こうという姿勢が、特にいまの時代には薄くなっています。人間が随分と、世界をコントロールできるようになったからです。
 
そして人間の手に負えないことに遭遇すると、それは不条理だと呼んで、あってはならないことのように見なすようにもなりました。でもそうでしょうか。世界は人間が考え予定した通りに動かなくてはならないのでしょうか。ヤコブは、そこに人間の見栄や誇りがあると言いますが、それは人間がそれをよかれと自負していることを意味します。
 
しかしヤコブはそれを悪だと一蹴します。なすべき善をなしていないとも言います。自分の命の許されてここにあることを弁えていること、自分が世界を支配しているのではないこと、こうしたことを根底に置いて、自分が確かにその中にいるその世界を生きることを求めているように思えてなりません。
 
年を改めるというのは、人間に、時を刻んで新たな始まりを考える機会が与えられているということを意味するものと、今日受け止めます。過ぎた過ちに囚われず、もう一度やり直してよいと許されている、と理解したいと考えます。世界は不条理ではありません。私は確かにこの世界の内にいて、世界を統べる神を見上げて生きたいのです。


Takapan
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