上からの知恵

チア・シード

ヤコブ3:13-18   


上からのソフィアと、地上のソフィアとがあります。後者は悪魔から出たものであり、人間由来の知恵なるものに信頼を置いていないことがはっきりします。ヤコブは、人類史上またとないくらいに、人の口から出る言葉に強烈な不信感を示しました。舌は不義であり、人は舌を制することができない、と。
 
これほどはっかり、そして徹底的に、人間から出る言葉を批判した者はいなかっただろうと思います。このヤコブの見解こそ、上より与えられたソフィアである、とここでは理解してみましょう。ヤコブはこの類の知恵については、清く平和で公正、従順と形容しています。確かにこれは悪魔的な知恵とは隔絶したものだと言えるでしょう。
 
それはよいのですが、この教えを説くヤコブ書自体は、そのどちらに属するのでしょうか。ソフィアの対比を説く言明は、それ自体どちらのソフィアなのか、ということです。いわば理性批判する理性自身はどこに立ってそれを行っているのだろうかという問いと似ています。しかしここでは、神がいます。これこそが神からのソフィアであるのではないでしょうか。
 
一方では、善い生き方を目指す、従順で柔和に実践する生き方をリードするのがソフィアです。しかし、それに対立するこの地上の原理、つまり真理に逆らう性向をもしっかり判別する力をもつものでもありましょう。「自然のもの」とも言われているのは「プシュケー的なもの」ということです。魂とも訳され得ますが、肉的なと理解した方がよさそうです。
 
この世のもの、それが自然的なものです。そのソフィアに属しはしないけれども、それをもカバーするような形で包摂する見解としてのソフィアをもつのが聖書です。そして聖書に目を開かれるというキリスト者のメリットがそこにあります。どうかこれに気づいてほしいと願いたくなる言動を繰り返す自称キリスト者のことを、心に重く受けとめます。


Takapan
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