分け隔てしているのは私

チア・シード

ヤコブ2:1-9   


非常にリアリティのある描写があります。教会に、宝飾を身に着け、華美な服をまとった人が現れます。一方、汚れた服の貧しい人が入ってきたとします。初めの人にはぺこぺこし、さあどうぞこちらへ、とにこやかに案内しますが、後の人には、立って見ていろ、でなければ、私の足元にでも座っておれ、とのみ言ったなら、これは差別ではありませんか。
 
確かに差別です。悪い考えに基づいて裁いている、とヤコブがこれを裁きます。かつて歴史で、主に従わぬ王たちが、たとえばアハブを思い起こすと分かりやすいでしょうが、真実を曲げて裁きをしていたことを、ユダヤ人は知っています。ステファノもまた、曲がった裁判の犠牲になりました。何よりイエスがそのような酷い目に遭ったのでした。
 
ヤコブは、キリストを殺したということを重ねるほどにまで、この差別行為に対して憤っています。本当にあった事件を、ややオーバーに描写しているのかもしれません。何も事例がないのに、わざわざヤコブがこのように記すことはないと思われます。ただ、ヤコブは言います。こうした貧しい人々をこそ、選んだのである、と。
 
信仰豊かになったのは、こうした人々でした。神の国は、このような人々のものなのです。だのに君たちは、貧しい人々を辱めたのだ、とヤコブは断罪します。この差別は、人間そういうこともあるよね、という程度で済まされる問題ではない、というかのように、ヤコブはかなり怒っています。こびへつらったその金持ちたちこそが、やがて敵となります。
 
キリスト者を裁判の席へ引きずったのは、正にそういう人たちなのではないか。キリストの名を汚しているのが、この金持ちたちだと吠えます。世の価値観がまかり通る教会などありえないなどと思うことなかれ。名の通った人を厚遇し、名も無き人を軽んじていることに気づくでしょう。私たちは平生、いかにひとを分け隔てしているのか、と。


Takapan
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