悪い考えに基づいて

チア・シード

ヤコブ2:1-4   


聖書を道徳の教訓のように読む読み方もあるでしょう。するとヤコブ書などはよい素材となり、ここからも、「人を分け隔てしてはならない」という視点に終始して語るということになります。確かに、ここは差別をするという事態を暴いていることに違いはありません。ヤコブは、金持ちを敵視し、糾弾する傾向があります。差別を確かに憎んでいます。
 
けれども、何故それがいけないのでしょう。すると私たちはしばしば、いつの間にか私たちの価値基準で説明するようになります。いまはそんな人権意識が正しいと見られているので、誰もがすでに理由なんか分かってしまっているような気になっています。すべては暗黙の了解で、言わなくても分かるじゃないか、と思うのです。でも、これが実は怖いのです。
 
互いに確認したり問うたりすることなく、当たり前だ、そうに決まっている、というだけの了解だと、また違う原理が示されたときに、簡単に流されていきます。気づかないうちに、賢い者に嵌められていくのです。クレームをつけない以上は、全てに賛同したことになり、意図をもって掲げるものの正当化のために利用されていくという可能性があるのです。
 
分け隔てをする者について、ヤコブは何と言っていたでしょう。悪い考えに基づいて裁く者になった、と言っています。新共同訳ならば、誤った考えに基づいて判断を下した、となっていました。悪い考えを正当な根拠だと思いなし、確信犯として正義を詐称していたのだ、という意味でしょう。その差別を、当然のこと、正しいことだと思い込んでいたのです。
 
立派な身なりの人を歓迎し、貧しい人を厄介者扱いし、僕のようにあしらう。これはいま果たして解消されているでしょうか。私は自信がありません。人はあらゆる場面で、何らかの判断をします。自分の一挙手一投足は、その判断に基づくものなのです。そのとき一瞬の中に入り込むのがこの悪い考え、誤った判断というものだと思うのです。
 
それが当たり前だと思い始めると、その考えをベースとして行為の原理や原則が築き上げられてゆくようになります。裁くというのはなにも人を直接に非難して決めつけることばかりとは限りません。なにげない価値判断や言明が、ある人を圧倒的に苦しみのもとに押しつぶすようなことがあり得るのです。これは、言い放つ側がなかなか気づかないものなのです。
 
気づくためにはかなりの想像力や体験が必要になることがあります。イエス・キリストへの信仰がありながら、分け隔てをしてしまうのです。本当に信じるとは、傷つける己れに気づくことを求めます。悪い考えなんかじゃないよと独り善がりの確信を排除することは難しいのです。この詐称が密かに滑り込んできます。私たちの心の根底に居座っていませんか。


Takapan
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