今も生きるファリサイ派精神

チア・シード

ヤコブ2:14-26


行いを伴わない信仰は死んでいる。ヤコブはそう確信します。教会の中で実際に何がなされているのか、心を痛めています。金持ちが威張り、貧しい者を軽んじているような描写は、ただの想像だけであるはずがありません。それがまた、口では自分には信仰がある、信仰が大事だと誇っているような人が、冷たい仕打ちをしていたのだと思われます。信仰のエリートが教会の中にもできあがっている。これは耳の痛い話ではないでしょうか。現代の私たちに無縁などとは思えなくて。
 
私はここに、ファリサイ派の再現を見ます。ユダヤ人がエルサレムを追い出された後、神殿祭儀を中心とするサドカイ派は存続できなくなりました。そこでもう一つのファリサイ派が、ユダヤ教を代表するようになりました。福音書では、イエスの時代を反映してどちらの派も出てきますが、ルカが執筆している時代には、実質ファリサイ派だけです。しかし、使徒言行録には、パウロの証しのほかにはファリサイ派は登場することなく、もはやキリスト教のライバルのようには考えられなくなっていました。
 
キリスト教側からすると、教会の働く時代には、ファリサイ派は無力だったのでしょうか。いえ、パウロの命を狙っていたのは、律法に厳格なファリサイ派であった可能性が強くあります。パウロの敵としては、ファリサイ派からクリスチャンになった者たちもいましたから、そのあたりは研究者の指摘を待つしかないのですが、おそらく推測の域を出ないでしょう。ただ、パウロ書簡が出て、また福音書が教会の支えになっていくにつれ、ファリサイ派が直接教会に与える影響は次第に小さくなっていったことは確かでしょう。
 
このファリサイ派精神が、いまのキリスト教会にも息を吹き返しているかもしれない、と私は警戒したいと思います。それも、異端めいた集団ではなく、正統派を自認するキリスト教会が、実のところファリサイ派精神をそのまま映し出しているという可能性がないか、問い直すべきだと考えるのです。
 
怖いのは、この問い直しをしないと、自分がそれに冒されていることにすら気づかないという点です。イエスに糾弾されたファリサイ派にしても、自分たちは善を行っているという確信がありました。むしろその確信が強すぎたがために、イエスに批判されたのです。少なくとも構図としては、現代の教会が信仰を確信し正義を主張することにより、このファリサイ派の立場になってしまっているということは、十分起こり得ることであると認識しなければなりません。
 
ヤコブ書は、ルターが藁の書だと軽んじたことで知られています。それは、ルターが賢明にカトリック教会に対して、行いにより救われるのではなく信仰によるのだ、と主張するためには、パウロの手紙は味方になりましたが、ヤコブ書にはそれを抑える言葉が確かにあったからです。プロテスタント教会は、このルターの正当性の主張を保たねば自らの立場もありませんから、いつの間にか、ヤコブ書を快く思わず、避けるようなことさえあるように見えます。
 
ヤコブ書の説教もしている。そのように言うかもしれません。しかし、いくら研究し、解釈を施したところで、聖書の言葉は、それを対象化し、客体視して眺めている限り、命をもたらすことはありません。自分自身のことだという受け取り方をしなければ、神の力が働くことがないのです。信仰を、見える形で示せというヤコブ書の言葉は無理な注文であるようにも感じられるかもしれませんが、信仰が実は見えていないとき、私たちはファリサイ派精神に溺れているかもしれないのです。神の味方であると言いながら人を殺していると非難されたあのファリサイ派は、イエスを崇めますと口で言う私たちと関係がない、と言い切れるものではない、そう捉える必要があると考えるのです。


Takapan
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