貧富と組織

チア・シード

ヤコブ2:1-8   


我らの主、イエス・キリスト、栄光。そこに信を置いているという私たちがここに前提されています。まるで礼拝説教のようですし、だとすると、信徒を前にした信仰生活についてのちくりとした刺激でもありうるような気がします。教会で実際に問題が起こっているからこそ、それを指摘しているというのでしょう。それは、貧富の問題でした。
 
ここには、それが仮定のこととして描かれているように見えますが、果たしてどうでしょうか。大いにありうることだし、実際あったからこそこうして書かれていると見ることもできます。どこか戯画化しているとはいえ、ありがちだと言えましょう。同じ教会に、社会階層の異なる面々が集まっていたために、こうしたことはありえたはずです。
 
教会を事実上経済的に支えていたサポーターとしての富裕層がいたはず。確かに、神の前には社会的地位やステイタスによる差別があると教えることはないかもしれません。ヤコブはそれを強調します。福音とは何であったか。イエス・キリストは私たちの目の前で何をしたのか。その原点に還る必要があることを訴えています。イエスは貧しい人々のところへ降りて、教えを理解できないような人々を集めていたのです。
 
教会が組織として成立して運営を始めると、その組織の生命をつなぐために、元来の目的とは別の原則が入り込んでくることでしょう。法人や組織がひとつの命をもってくると、その維持のための努力が必要になります。その時、本来的なものがいつの間にか何かとすり替わり、私たち一人ひとりが、かつてとは別の方向へと進んでいくことが大いにありうるのです。
 
それは、今の時代の教会もそうです。教会はイエスの生き方に倣うなどと言いながらも、それは精神的な意味に過ぎないと言い訳をしていきます。人の子は枕する処がなかったのに、きらびやかな飾りの教会堂を誇るようになり、あまつさえそれこそ神の栄光だと自画自賛をするようにもなります。約束の国とは何だったのでしょうか。
 
あなたがたは貧しい人を辱めた、と著者ははっきり言ってしまいました。「貧しい人」は単数です。特定の人の例があったのでしょうか。あるいは複数の人々の例をひとつの代表として扱っているのでしょうか。あるいはもしや、暗にこれはイエスを示し、イエスを辱めているではないかと突きつけたいのでしょうか。
 
「富んでいる者たち」というのは複数です。ユダヤ人たちを想定している可能性もあります。金持ちをそれほど重宝するのであれば、いっそ自分たちを迫害するあの金持ちたちを優遇すればよいではないか、と皮肉めいた言い方をも辞しません。その上で、隣人規定が私たちの立脚点だとここで立ち帰らせ、イエス・キリストとはどういうお方であったのか、もう一度そこに固執すべきであるのだと教えます。それでもなお、イエス・キリストを辱めるのか、と突きつけながら。


Takapan
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