疑わずに一筋に

チア・シード

ヤコブ1:2-8   


ヤコブ書もまた、ヘブライ書のように、説教としての役割を果たしうるメッセージとなっている、そう受け止めることもできると思います。その冒頭は、試練を喜べ、というものでした。信仰は忍耐を生むのだから。いきなりこう言われても戸惑うかもしれませんが、このメッセージを受け取る人々は「試練」としか呼べない事態のただ中にあったのです。
 
力強い慰めになったのではないでしょうか。つまり、いま平穏な人には、この話は別の世界のことでしょう。でも当事者であれば、そうはいかないのです。信仰は忍耐を生み、忍耐は人格的に完全な人を造る。神に求めれば、この知恵も授けられると信じたい。が、そこに強い戒めが刺されます。疑うな、というのです。少しも疑うことなかれ。
 
疑うとはどういうことでしょう。私たちは定義に悩みます。ここに「二心」という語が提示されます。これほど短く明晰に、疑うという事象を定める語が出されたことに、驚くばかりです。心が二つに分かれるのです。Aかしら、Bかもしれない、と二つの心がここに現れていることになります。心が分裂しているのです。
 
「心」とはここではプシュケーという語になっています。魂でもありますが、体と別物ではなく、人としてのあり方全体を指して捉えられていると思われる語です。日本語の「心」という、心身の二元性をイメージさせるものではありません。人の言動全体を以て、二つに分かれ、どっちつかずにさまようようであってはいけないのです。
 
あのカルメル山でのエリヤが、どっちつかずのイスラエルの民に呼びかけた場面を、ここに重ねて見ることができると思います。詩人は、一筋の心を与えてください(詩編86:11)と願いました。私たちもそのように願いたいと思います。迷うことなく、様子見をするようなこともなく、即座に神に向けて手を挙げる者でありたいと思います。
 
かつて主の箱を奪ったペリシテ人たちでしたが、災いが次々と起こるために、イスラエルに主の箱を返そうとしました。このとき、箱を載せた車を引くために二頭の雌牛が用意されましたが、この車は、一筋の道をまっすぐに進みました(サムエル上6:12)。神はぶれることなく私たちのところへ来ます。私たちにも、揺れ動かないものがあるでしょうか。


Takapan
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