鏡の中の自分

チア・シード

ヤコブ1:19-25   


聞くに速く、語るに怒るに遅くあるべし。思えばSNSにより意見が他人の目に触れやすくなったとき、なんとこの逆の道があたりまえとなってしまったことでしょう。それはつまり、元来人がそういう性質であったのだということを物語っているようです。汚れや悪だらけであり、なおかつそのことに気づきさえしないのです。
 
あるいは、よしんば気づいたとしても、それを認めないで欺瞞の世界を築いていく。そんなところに魂の救いなどありはしません。ヤコブはそれを改めるきっかけを、「行う」というところに見出そうとしています。ひょっとすると私たちは、まず行動に起こすことで、ダメなあり方から脱出できるのではないか、と考えたのではないでしょうか。
 
聞くことは大事だと認めた上で、聞くだけの人であってはならないのだ、とも言います。鏡の中の自分を見た、しかし鏡の前から立ち去れば、自分の顔がどのようであったのか、すぐに忘れてしまう。この鏡の喩えは、自分の顔を忘れるようなことのありえない現代では、分かりにくい話になっていませんか。正直なところ。
 
自分が今、他人にどう見られているか、私たちはそれを意識しなくなってきている、その点をここから聞くことを試みることにします。あの人は口先だけで何もやっていないではないか、と他人から見られていても、私たちはお構いなしです。自分を客観的に見る視点を失っているのだ、という点を考えてみることにします。
 
ヤコブは、そうではなくて、律法を見つめ続けるべきだと言いました。つまり、律法を見つめ続けることで、自己を、自分中心の世界ではなく、自分が置かれた世界のほうこそが基準であるとして捉え、自分が大きな世界に包まれて存在している者として知ることができるわけです。行うことを一つの鍵として自己認識ができるはずなのです。
 
私たちは、自分には信仰がある、自分を信頼する、という基盤を大切にすることがあります。すると、自分が世界をある意味で支配していることになります。自分が原理であり、いつしか自分が神になるのです。自分を世界の中心であり基準であるとする罠に陥ってします。この罠を忘れるな。ヤコブの警告を真摯に受け止めたいものです。


Takapan
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