怒りの原理

チア・シード

ヤコブ1:19-21   


きょうだいたち。私の愛するきょうだいたち。ヤコブの手紙は、初めからこう呼びかけ続けています。語っていた説教の原稿なのではないかと目される所以です。いまここでは、怒りへの戒めを告げました。怒るのは極力遅くあれというのです。このとき、聞くのを速くせよ、と触れるところに趣があります。聞かないから、怒りやすいという訳です。
 
何を聞くか。神の言葉を、と言いたいところですが、もちろん、ひとの言葉であってもよいでしょう。相手の言い分を、まずよく聞くのだ、というのが直接の意味であるはずてず。私たちの怒りは、相手が何か言おうとしているのは阻むものです。討論会で相手の話の途中で割り入るという様子を、幾度と無く、また今現在も、私たちは見ています。
 
他人の言い分を耳にしないのです。おまえの言うことなどもう聞かない。こうして自分はひたすら怒りの感情に支配されてしまうのです。だから、相手の言い分をまず先に十分に聞くことから心がレ、自分が語るほうはできるならそれを心の中に呑み込むくらいに留めておく、そうして怒りを抑えよ、とヤコブは言っているのかもしれません。
 
しかし私は、神に向き合うことを考えると、神の言葉をまず聞くことから始まる点を気づくようでありたいと願います。神に向けて言いたいこと、願いですら、それよりも後であったらよいと思うのです。もちろん、まず自分から神へ願うことが禁じられるものではありません。けれども最初に聞くということから始まる神との交わりが望ましいのです。
 
この姿勢が、ひとに対しても同じように施されるであろう、と思われるからです。怒りは神の義とはならない、そう手紙は言っています。怒りは自らの義を確信するところからしか生まれない、と理解してみては如何でしょう。自分が正しい、即ち相手が不義である。だから自分は怒るのです。自分は正義であるに決まっているから、怒ってよいのです。
 
けれども、義なるものは自分でもないし、相手だけでもありません。正しいのは神です。争いの中にいる自分たちを超えた方にのみ、絶対の正義があるとするのです。神からの言葉の正しさのみを掲げていたいと願います。この前提の下に、私の魂は、救われることができる、そういう信頼を神に置くことがよいとは思いませんか。


Takapan
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