試練は迫害ではない
チア・シード
ヤコブ1:12-18
「試練」という言葉を「迫害」の意味で使う人がいます。自分は何も間違ったことをしていないのに攻撃され、辛い目に遭う、という場合に「試練だ」と言うのです。「迫害」なら確かにそういう意味かもしれません。しかし、攻撃する側にも何か理由があることがあります。が、何もそこまで害を与えなくても、という場合も少なくありません。
いじめられる方にも理由がある、という論理を持ち出すのは、よほど最後の手段としくなくてはならないでしょう。ともかく暴力的なことがなければ一番よいのです。宗教の問題の場合は、自らの正しい信仰をもつ以上、相手が悪である、という信念が先走ることがあります。自分は神の側にいるから正義であり、相手を攻撃しても当然だと考えるのです。
ヤコブはここで「試練」という言葉を用いています。それは「人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される」という意味を含んでいます。「欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生」むのです。それなのに、この試練は神から与えられたのだ、とクリスチャンはしばしば口にします。でもヤコブからすれば神は人を誘惑しません。
「思い違いをしてはなりません」との警告を、私たちこそ正面から受けなくてはならないのではないでしょうか。「良い贈り物」「完全な賜物」は、上から、神から来ると見てよいでしょう。そこには「陰」の働きはありません。私たちを「真理の言葉によって」生んで下さった、その光を覚える喜びの基は、正に神にあるのです。
ヤコブはキリスト者を、「造られたものの初穂」とするためだとしていますが、十字架と復活からすでに半世紀をゆうに越えていると思しきこの時代、「初穂」という語がもつ意義が拡大されているであろうことに気づきます。あるいはそれは、豊かな実を結ぶ神の僕としての自覚を促すものとなっているかもしれません。
ここからヤコブは、教会に集うメンバーとしての実際上の行いへ、と目を移すようになります。現実の教会活動の中で、よほど目につくことがあったに違いありません。それは実のところ「試練」です。自分自身が原因で招いたことです。人のせいにする気持ちがあるとき、やがてそれを神のせいにもしてしまいます。人間の浅はかさを覚えます。