試練と誘惑

チア・シード

ヤコブ1:12-16   


そもそもこれは手紙であるのでしょうか。説教ではないかと言う人もいるくらいですが、当時は手紙というものがステイタスがあったのか、手紙の形式となっています。しかしその出端が、いきなり試練を堪え忍べというのですから、きつい当たりです。確かに最初は挨拶らしいものを見せますが、すぐさま試練を喜べ、とくるのです。
 
忍耐が完全性への入口である、強く言い放ちます。その人が幸いなのです。マタイの「幸いなるかな」の山上の説教と同じ語です。尤も、今回は単数形であり、一人に対して話しかける形になっています。手紙の受け手が単独であることを前提にして、自分が忍んでいる状態の中でこの呼びかけを受け取ることができるようになっているように見えます。
 
説教でも、「皆さん」という呼びかけがよく使われます。「皆」という複数形に、個人に付ける「さん」が組み合わされています。「あなた」と呼ぶこともありますが、日本語でも英語のように、複数であるように感じることもあるでしょうか。他人事として聞いてはいけません。語られるメッセージは、神から自分へ、個人的に向けられているのです。これは自分のことではない、という姿勢を取るのは、クリスチャンになっていない証拠となります。
 
試練を耐え忍ぶ者に祝福あれ。新共同訳は、続いて誘惑に遭うとし、神が誘惑すると考えてはならないと教えていますが、これでは、同じ語であることが伝わりません。もちろん名詞と動詞との差異はあっても、「試練」と「誘惑」は強い関連を示す語です。たとえば「試み」と「試みられる」のような言い回しだと、それがよく響くでしょう。試練と誘惑が別物として述べられてはいないということです。
 
何者かが試みてきます。それを試練として受け取るのは確かにこちら側、人間たる自分の見方です。試みると言えば、試みてくる側の主体が想定されてきますが、それを神だと考えるな、と釘を刺しているわけです。なるほど、どうして神が人間に罠を仕掛けようとするのか、などと私たちは考えがちではあります。時に学説にも現れ、大いに議論されることがありました。
 
しかし神が「悪の誘惑を受ける」ことはない、とするときの「誘惑」は別系統の語であり、「人を誘惑」するときと「誘惑に陥る」ときとは、また元の「試み」の語に戻っています。新共同訳ではこの関係が全く分かりません。別の語で同じ意味を表すことが常套手段であるとはいえ、できればこの違いについては訳出してほしかったと思います。
 
イエスが荒野で受けた試みがありました。イエスは徹底的に人となったということが分かります。そこまで身を降ろし、私たち人間と同じ地平に立ったのです。イエスが私たちと同じになったのです。人間が少しばかり偉くなって神の高さに及ぶのではありません。ただ、イエスは試みを受けても誤りませんでした。確かにそこは、私たちとは違います。私たちにだけ、欲望があるからです。そこは弁えておかなければならないところです。


Takapan
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