神と人との間に立つ預言者のように
チア・シード
イザヤ9:1-6
「異邦人のガリラヤに栄光が与えられる」(8:23)と、新約聖書につながる預言が見られます。その前には、「教えと証しの書にこそ尋ねよ」(8:20)との指示もありました。イザヤの預言からすれば、早い時期のものかと推測できますが、イスラエルが何を頼りとすべきかをはっきりと示しています。闇のような現実がイスラエルを襲い、暗雲が立ちこめます。
希望のない情況の中で、イザヤは光があると告げます。闇の中、死の陰にある民に、大いなる光が輝くといいます。「彼らはあなたの前に喜んだ」というその「あなた」は、主でありましょう。これはイザヤ自身の声です。「主は言われる」という文脈ではありません。あなたは人々の軛を打ち砕き、民に自由を与えました。これがイザヤの賛美です。
この視点があるからこそ、「一人のみどりごが私たちのために生まれた」と言えるのです。「私たちに与えられた」と言えるのです。イザヤはイスラエルの民を背後に抱えるようにして、主と向き合っています。主に「あなた」と呼びかけて、「私たち」を「あなた」が救ってくださることを預言しました。思えば、これこそがキリスト者の立場です。
キリスト者は、民の運命を背負うほどの役割を与えられています。人を執り成し、神と人間一般との間で、出来事となる神の言葉を取り次ぐのです。キリストが生まれた。新約の徒は、イザヤの言葉の中に、肉となってキリストの姿を見ます。クリスマスに、「私たちのために生まれた」というニュースを口にしますが、それは世に聞こえるでしょうか。
「その主権は増し、平和には終わりがない」との希望をもたらしているでしょうか。かつての「ダビデの王座とその王国」は消失しましたが、「今より、とこしえに」それは立てられると知らせるのです。うわべを飾り虚しく輝かせている世界、不安しか抱えずして虚空であることすら表に出せない欺瞞の中にあります。暗い世界に、希望を知らせます。