兵士の靴と血にまみれた服
チア・シード
イザヤ9:1-6
「抑圧された地から闇は消える」(8:23)からこそ、「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」と言うことができるのでしょう。「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた」のです。イザヤの見た幻は、光に包まれていました。「異邦人のガリラヤに栄光が与えられる」(8:23)との預言は、イエスの住んだガリラヤのことと見られました。
それは、「一人のみどりごが私たちのために生まれた」ということ、つまり正にイエスを示したとキリスト者が捉える言葉をもたらす舞台となりました。この「男の子」は、イスラエルを救う王だと見なされていたようです。やがて「永遠の父、平和の君」と呼ばれることも預言されています。この王が作る「平和には終わりがない」とも言っています。
クリスマスを思う私たちは、ここにイエスの登場、いわゆる「受肉」を重ねて見ます。もちろん、それでよいでしょう。しかし、私たちの目は、ふだんここにしか向いていません。その「みどりご」の直前に何が書かれてあるのか、普通見ていないのです。訳の中の状態の民が負う軛や、打たれる鞭を取り去った、そこまではなんとか見ていたのですが。
でも「地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服は/すべて焼かれ、火の餌食となった」というフレーズは、私の頭にはありませんでした。ここだけ、他の文と、主語が異なります。イスラエルの民がどうだこうだ、あるいは主である神が何をなさったか、他の文は、そればかりに関わっていました。しかしここでは、滅びる敵が主語となっています。
2024年現在、この日本だけのことを思うと、直接戦争の攻撃を受けているわけではありません。でも、ウクライナとガザは、ずっと理不尽な戦火の中に置かれており、日々命を落とす人がいる様子です。預言は象徴的です。兵士の靴音は隊列の行進を示し、戦った血に染まる服は正に殺し合いがあったことを伝えます。
昔の戦争がそうでした。今はきっと違います。が、それでもこれらの描写は、シンボルとして今の私たちにも響いてきます。こうした姿は、平和の時代には不要であり、ないはずのものです。それらの景色は、いずれ終わります。そして「平和には終わりがない」とされ、そこにあるべきは「公正と正義」、もたらすのは「万軍の主の熱情」なのです。