メシアがみどりごである件

チア・シード

イザヤ9:1-6   


クリスマスによく開かれるイザヤ書の箇所の一つです。一人のみどりごが私たちのために生まれたというのは、まさしくイエスのことに他ならないのだ、と。もちろんイザヤがそう言っているわけではありません。ダビデの王座がこの永遠の父、平和の君の名の下に確立するというのは、壊れたイスラエルが再生するきっかけと考えられたのでした。
 
救い主としてのメシアの姿をイザヤが思い描いていたことは確かですが、現実の国の再興の中に置かれていたのでした。民は闇の中にいました。そこに光が射し入ってきました。民は死の陰に絶望していました。そこに光が輝きました。対比構造で言い換えるのが常のレトリックの中で、どちらも「光」としか表現できないものがあったようです。
 
それはもう「光」としか言いようがないものでした。イスラエルはその「光」により救われるというのです。しかし、こうした預言は必ずしも時間順に並べられているのではないにしても、この預言に続いて、かなり厳しい裁きが告げられていることにも注意しましょう。甘いムードで平和が告げられているだけではないのです。
 
人々は高慢と尊大な心があり、主を求めようとしなかったとイザヤは断罪します。偽りの預言者が教え、政治的指導者も惑わすばかりでした。メシアはそういう世に現れて、光となったのです。だからむしろ、でたらめな世の中であったイスラエルの厳しさの中にこそ、このメシアが現れるのだというメッセージとして、受け止めたいと思います。
 
私たちは闇の中にいるでしょうか。それが闇だと覚えないところに、光が救いとなることはありません。己れの中に闇と絶望を知り、そこからなんとか救いを求めようとして、ついに神に出会うというプロセスが、唯一の救いだと決める必要はないでしょう。しかし依然としてそのような救いの道は、代表的な一つの救いの道であるのだと思います。
 
この世に生まれたメシアは、人として現れたが故に、赤児からスタートしたのです。そのようにして神の子が人の歴史の中に、確かに入ってきたのです。イザヤは特定の王の出現をイメージしたはずですが、奇しくもそれは、王位に就くべき身分ではない、ナザレの大工の子として、イエスの中に実現したと私たちは知らされました。
 
癒しと救いの業を世で明らかにしながらも、愛を義として伝え、罪そのものとしての人間の自己中心やその他憎しみなどにまみれた輩により、殺されます。十字架に身を任せたというよりは、父なる神が十字架へ独り子をつけました。血を流して苦しんだイエスを、その神が復活させます。ここまで見通しての、クリスマスでありたいと願います。


Takapan
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