現代の平和

チア・シード

イザヤ9:1-7   


ダビデを通して、イスラエルの王座は約束を受けていました。ソロモンの背信により王国は二つに分かれ、ダビデ王朝は南ユダ王国を受け継ぐのみとなりましたが、その灯は消えることなく続きました。たとえエルサレムの神殿が破壊され、人々が連行されようとも、見えない形でダビデの子孫は続き、息を潜めて、時がくるのを待っていました。
 
イザヤはその時代の行く先に幻を見ました。新しい王が生まれる。敵を屈服させ、永遠の平和をもたらす赤子の誕生です。この場合の「平和」とは、敵を撃ち破り踏みにじった末に実現する安泰のことをいうのでしょう。表向き穏やかな偽りの平和のことではありません。力により果たされた平和であり、荒廃と死を経て実現する平和です。
 
この思想を、現代にそのまま持ってくるのは危険です。力ずくの政治や軍備を正当化するだけのものに利用されかねません。ボタン一つで国が滅亡するような技術をもつに至った現代の「戦争」は、聖書時代の「戦争」とは訳が違うのです。力ある神と呼んでいたものが、いまや核兵器に姿を変えてしまったかのようにさえ思われます。
 
ダビデの王国は、公正と正義によって立てられ、支えられるのだと言っています。人間の義憤などがこれほどのことを実現できるわけがありません。現代ほど膨大でエネルギーをもつ戦力を所有するに至った人類は、かつての預言の書の想定を遙かに上回ってしまったのかもしれません。このな時代に、聖書の言葉がリアリティをもたないのは当然かもしれません。
 
必然、聖い教えによってただ心が平安になりますよ、とでも言うような適用しか告げられない福音になど、聞く耳をもたないという世界観が当たり前であるのでしょう。現代を動かし変えていくダイナミックな働きへとならないキリスト教思想、福音の力というのはどうなのでしょう。ダイナマイト的な力をもっているはずの福音は、何をしているのでしょう。
 
待てよ。それは問題なのでしょうか。私たちが何もできないということ、その故にこそ、主が働くということを、聖書は幾度も告げていなかったでしょうか。これは主の戦いだ、人は黙っていよ、と言われなかったでしょうか。私たちこそ、闇の中を歩んでいたのであり、死の陰の地に住んでいるのではないでしょうか。ただ喜べばよいのではないでしょうか。


Takapan
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