暗きに輝く光

チア・シード

イザヤ9:1-6   


異邦人の地ガリラヤに奇蹟が起こることが、預言者イザヤを通して明らかになりました。人々は、偉大な王がイスラエルに現れて、イスラエルに繁栄をもたらしてくれることを期待していたのです。巨大帝国に踏みにじられ翻弄される小国には、天地創造の神がついているとの信仰から、そしてかつてダビデを通して与えられた栄光が再び現れる望みがそこにありました。
 
ただそれは、イスラエルが谷間で嘆いているからこそでした。死の陰の谷。口で言うのはたやすいことですが、現実の人々の生活は、その日の命さえ保証できないものだったかもしれないし、イスラエルの誇りというものも蹴散らされていた精神的ダメージもあったことでしょう。その谷に光が射すというためには、よほど日が高いところに昇らなければなりません。高らかに神の栄光よ輝いてください。民は待ち望んでいました。
 
もはや自分たち人間の力には何ら頼るところがありません。主を信じるしかできないのです。こうまで追い込まれた民にもなお、神を信頼している。自分を信じるなどという現代人の強みなどまるで考えられないものでありました。民の期待は、新しい王が誕生するということでした。ここには即位式をイメージした描写があります。幾つもの名が王に付されるのは、エジプトなどでよくあった当時の習慣だったようです。
 
それはダビデ王の家系に属する者でした。イスラエルを再興する者と考えられました。そうして立てられた国は、もう二度と大国に脅かされることがない。永遠の平和がそこでもたらされると宣言する。イザヤは麗しい姿を提示して、王への民の期待を夢のように描く。しかし、現実はそうはいかなかった。イザヤはそう言いたかったのです。
 
現実のイスラエルの王たちは、ぶざまでした。王たちは主を離れ、民の心も神への礼拝から遠ざかりました。残念な王国の末路が目の前に現れただけでした。けれども、それでも、回復がある、とイザヤは信じています。イザヤ個人は、主の前から離れないのです。これは、現代における私たちの信仰においても十分見習えることではないでしょうか。
 
私たちはこの救い主の訪れを、イエスに重ねて見ます。イザヤがイエスを描いたというのはありえないことですが、結果的にそれはイエスとなって成就したと私たちの視野には映ります。民はイエスを受け容れませんでした。しかしその誕生は光であり、希望でした。十字架に殺されることになりましたが、復活という形で希望は失われませんでした。
 
私たちはクリスマスとして、イエスの誕生を祝います。千回も二千回も、その誕生を祝っています。それでも人々が皆イエスを受け容れたなどとは言えない状態です。見るところはがっかりです。しかし光は依然として、高いところから谷間の底の私たちを照らしています。私たちは谷底にいても、暗きにいても、間違いなく輝く光を受けているのです。


Takapan
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