クリスマスと呼ばないで

チア・シード

イザヤ8:23-9:6   


闇の中を歩んでいた民。2020年、人はこれが昔話でないことを知りました。疫病に人々が倒れ、国は混乱しました。人が神なしに繁栄を誇っていた経済の仕組みは、まともに成立できなくなりました。バベルの塔は建設を断念せざるをえなくなり、人々の距離が離れ、愛は冷えてゆくばかりとなりました。
 
死の陰の地に、私たちは住んでいるのだということを、否応なく自覚させるものでした。問題は、そこに光が輝いているのを私たちが見るかどうか、そこにあります。人間中心の、人間の欲望を満たすためとなったクリスマスなるイベントに、光があるのでしょうか。光が来るのでしょうか。もう「クリスマス」の名をやめたほうがよさそうですらあります。
 
イザヤは、闇が消えることを主の約束として示します。この約束を信じるのみですが、私たち人間がこの闇を助長していることに気づき、光を迎え入れなくてはならないと思います。イエスを迎え入れなくてはならないのです。クリスマスはそのための礼拝をしよう、と私たちは言いたい。でも、そのように私たち自身は、しているのでしょうか。
 
キリストの礼拝という名が「クリスマス」ですが、まるで商品名やそのタグとしてしか意識されていないようになっていないでしょうか。へたをすると、教会までも、どこかそんなふうになっていないでしょうか。驚異の指導者と思っているか。力ある神と見ているか。永遠の父と呼んでいるか。平和の君という名に相応しく崇めているのでしょうか。
 
神は公正と公義を以て備えていても、人の側が受け容れなければ、人の世界にそれは実現しないでしょう。神の言葉が本性的に現実になっていたとしても、私たちにはそれが見えなくなっています。それどころか、実は私たちこそが打ち砕かれようとしているのではないか、と考える必要はないでしょうか。キリストの礼拝をしないのであれば。


Takapan
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