イザヤの預言はイザヤの預言

チア・シード

イザヤ7:14-17   


ユダの王アハズは、アラムに怯えていました。最初は助かったとはいえ、アラムがエフライムと同盟して、ユダを狙っていると聞いたことで、いてもたってもいられません。そこへ若きイザヤが、預言の霊を受けてまもなく、アハズ王に主の言葉を伝えに来ます。主から遣わされて、ユダの危機を脱出する知らせを、王の耳にもたらすのです。
 
イザヤは勝利の約束をもたらします。そしてそのために王が主に対してしるしを求めるよう促します。ところが王は主にしるしを伺うことを求めません。そんな大それたことができるものか、と、いかにも信仰深いような言い回しをしてきますが、イザヤは目に見えるしるしを求めないことは却って不信仰であることを見抜いていました。
 
イザヤのほうがしるしを告げます。若い女が身ごもり、男の子を産む。その子はインマヌエルという名をもつ。この名というのは通称のことではありません。本質を表す名です。マタイはこの名をそのままにイエスについてのものと考えました。イエスがインマヌエルと名乗ったことはありませんが、福音書全体をこの思想で貫きました。
 
凝乳と蜂蜜は、かつてはごちそうだったかもしれませんが、この頃には人々は贅沢になり、逆に貧しいことを表すために持ち出されたようです。華やかな暮らしの中でこの救世主は育つのではないのだ、と。益々イエスと重ね合わせたくなる私たちですが、そう簡単には運ばないようにしましょう。イザヤの預言は、イザヤの預言なのです。
 
アッシリアと手を結び、アラムとエフライムに対抗せよというイザヤの提言は、極めて政治的なものでした。インマヌエルという、戦いに勝利することの宣言は、イエスのような霊的な勝利とは違い、どこか血生臭いものでした。アラムとエフライムは、アッシリアに潰されるでしょう。ただ、それで安泰とはゆきません。
 
アハズ王はいま、主に対して向き合わず、不信仰を示したことにより、その責任がユダをも変えてしまうでしょう。アッシリアの王がこの世界で君臨し、偉大なる存在となるわけで、そのときユダはどういうことになるか、イザヤは辛い幻を見ています。イザヤは現実の政治をよく見つめ、歴史の中の国の動きのことをよく観察し、考察していました。
 
こうしてイザヤの預言を見てくると、いったいどこがキリストの誕生のことを表すものとなるのか、怪しくさえ思えてきます。ただ、イエスこそユダの国とその民を救うと望んだマタイにとって、インマヌエル、つまり神が私たちと共にいる、という救世主のための言葉は、どんなにか頼もしく見えたことでしょうか。


Takapan
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