イザヤを導く煙

チア・シード

イザヤ6:1-4   


ウジヤ王の死の年であるといいますから、B.C.742でしょうか。時代が察しやすくなります。ここから20年後、北王国イスラエルはアッシリアの侵攻により有力者は捕囚の憂き目に遭い、250年余り続いた王国としての歴史を閉じることとなります。イザヤが主によって立てられ、預言を始めたのは、このような圧迫を受け続けている状況の中でした。
 
この出来事を経て、預言者イザヤが誕生します。神に呼ばれるようにして、幻を見せられました。元々主を信ずる環境にあった人が主を見るというのは、どういうことなのでしょう。パウロも主を知っていながら、イエスの呼びかけに応えるという形で召されました。但し、自分が思い描いていた神との出会いとは違う想定外のものであったことでしょう。
 
私などは、そのような神の文化とは別の風土・時代に生まれ、神と出会いました。同じ神に出会っても、文化亭背景が違うので、イザヤの場合には華やかな幻を見ることになります。イザヤの描写は、他の預言者と比べても比較的理性的というか、穏やかでその想像についていける程度の幻であるような気がします。そこにいたのは、セラフィム。
 
セラフィムは伝統的な天使であることを知ればよいかと思われます。燃える天使であることで、イザヤに熱いメッセージが押し寄せてきます。「聖なるかな」と三回繰り返すのですが、これを三位一体だと先読みせず、だが強い意味で迫ってくることを感じとります。神は人にしばしば二度繰り返し名を呼びましたが、神の称讃は人に対するものと違うようです。
 
他とは一線を画された存在としての神が「聖」ということ。その神を力ある万軍の主と称え、その栄光が全地に満ちるとセラフィムは告げます。それらは飛び交いながら、互いに呼び交わしていると描写されます。この声は或る現象を惹き起こします。敷居の基が声により揺れ動いたというのです。ただの錯覚や空想ではなかったことを印象づけます。
 
そして神殿が煙に満たされました。煙とくれば、焼き尽くすいけにえを想起させます。また、人の祈りが天に昇っていき神に届くというイメージも与えます。煙が高く上るさまは、神と人とをつなぐ一種の架け橋のようにも考えられます。人から神へと伝えられるひとつのメッセージです。煙は主なる神の臨在、神との交わりを思い起こさせてくれています。
 
そもそも神殿の中に神が収まるはずがありません。神殿は形か象徴であるかのようです。しかし決して無意味なものではないでしょう。神殿に神の臨在を感じたイザヤは、全地に主の栄光が満ちる時がくることを疑いません。私たちも神殿に満ちる煙の一部です。セラフィムに燃やされ、いぶし出された煙となって、神の国の世界を満たすのです。


Takapan
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