そのイスラエルでよいのか

チア・シード

イザヤ66:10-14   


いよいよイザヤ書も最終章を迎えました。主の栄光が現れ、イスラエルは大いなる祝福を受けます。現実に見ていたイスラエルは、復興の途であったことだろうと思います。でも、主の言葉が真実であったと確信するとき、その途上は確かな目的へ向かうことを知り、信仰の道が始まります。これは何かに似ていないでしょうか。そう、神の国です。
 
いまここが神の国として完成しているわけではありません。しかし、主の栄光に照らされている中で、自分は確かに神の国の切符を手にしていることを知っています。神の約束を握っているからです。「エルサレムと共に喜び祝い」「喜び躍れ」と始まるこの箇所は、神の都エルサレムの復興を祝し、エルサレムの「慰めの乳房から飲んで満ち足り」ます。
 
エルサレムを女性に喩えています。しきりに「彼女」として扱います。主はエルサレムに「平和を、河のように」与えると約束します。シャローム(平和)という語に関して命名された都ですから、当たり前のように思われるかもしれませんが、旧約の地名はしばしば、出来事や情況に応じた命名がなされています。それにしても歴史は皮肉なものです。
 
エルサレムは常に争いの火種となり、イスラエル共和国は、抵抗という名の攻撃を繰り返してきたし、いまも緩めることがありません。平和の逆を実践しているのは、何故なのでしょうか。子を慰める母のように、主はエルサレムでイスラエルを慰めるというのに、どうしたことでしょうか。エルサレムがシャロームの地になることを切に祈り求めます。
 
喜ぶ心、萌え出でる骨と祝されたイスラエルですが、まさか主の僕たちの「憤りはその敵に向けられる」という言葉だけを真に受けて、敵と見なした者に憤り攻撃するのが、神の代行だと考えているのでしょうか。痛めつけられた主の僕の姿が、怒りに身を任せた獣となってはなりません。キリストの登場が必要なのではないでしょうか。


Takapan
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