エルサレムと共に喜び祝い、躍れ

チア・シード

イザヤ66:10-11   


解放の知らせを受け手、やはり神は正しかった、イスラエルは神に愛され守られてきた、と喜んだ預言者は、高らかにこの勝利感を謳います。私たちもそういう時があります。なんと神は大いなることをなしとげたのか、全く信じられないことが、しかし主に待ち望んでいたことが真実になったことを、どこか戸惑いつつ喜ぶことがあるのです。
 
神の言葉は空しく消えるものではなく、現実に起こるものだという、元来信じていたはずのことが、いざ目の前に起こると、どんな感覚に陥るでしょう。「まさか」「うそ」と口をついて出そうな気がします。「やっぱりね」と言うのは無理でしょう。が、旧約の預言者はたいてい「やっぱりね」と笑みを浮かべているような気がしてなりません。
 
今このイザヤはひどく興奮しています。シオンの娘というくらいだから、それを女に見立て、女としての祝福である出産をメインにしたイメージを展開し、重ねていきます。さあ、このエルサレムと共に喜ぶ祝おうではないか。躍り上がろうではないか。エルサレムを愛するならば、そしてこれまでエルサレムのために嘆いていたなら、今こそ共に喜ぶのだ。
 
その女の乳を受けるというイメージも付け加えられ、乳と蜜の流れる地を与えられたというのが、出エジプトの行き着く先でしたから、その遠い歴史をも重ねて思い返す機会となるものでしょう。共に喜ぶばかりか、そこに帰されるイスラエルの民は、たっぷりと恵みの食などが与えられるというのです。
 
この回復の歓喜は、かのバビロン捕囚からの帰還の時のほかは、もうないのでしょうか。これから私たちの上に起こるはずの出来事だと見てはいけないのでしょうか。かつての事件が、これからの出来事の予型であるかもしれない、否、きっとそうだと私たちは、主からこのイザヤの言葉を受けるようでありたいものです。受けてよいのです。
 
そして私は、そのように受けましょう。どんなに嘆きが今まであったとしても、それは喜びに変わるときがくると信じ、待つのです。それは私たちに起こるはずのことなのです。イザヤはこの情景を描くことで、筆を擱きました。この後の出来事は、私たちの身の上に起こり、神の栄光が現れることを期待してよいのでしょう。


Takapan
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