イスラエルを舞台として

チア・シード

イザヤ62:1-5   


シオンの丘は、エルサレムの町を示します。女性名詞ということで、女性になぞらえて表すものであるようです。だから、夫という他者が登場して、結ばれる関係が描かれています。ここに選ばれた言葉の一つひとつの解明は、なかなかできそうにありません。言葉を誤解すると理解も遠ざかるために、探究は大切であるにしても、深追いはしません。
 
それよりも、いましばらく我が身に引き寄せて、この詩を味わう時間をもちたいと思います。イスラエル民族の都のあるシオンの丘は、しばし捨てられていました。荒れ果てるに任され、見るも無惨な情況にありました。イスラエルの背信が、外敵の侵入を呼び、民の有力者たちの多くが捕囚となって遠い国に連行されていったのでした。
 
でも、それから1世紀を待たずして、民は帰って来ました。全員ではないにしても、国の再興が許されました。世の不思議な流れで、ペルシア帝国が寛容政策をとり、帰りたい者は故国イスラエルへ戻ってよい、とされたのです。ここに「夫を持つ者」という表現がありますが、人間が戻るという意味なのでしょうか。なかなか誰も説明してくれません。
 
土地が女性に喩えられ、その土地が、相応しい人間を迎えてそこに住まうようになると、幸福な結婚生活が始まるということなのでしょう。よき結ぼれがここに成立します。「あなたの子ら」は、そこから増えるイスラエルの民でしょうか。他方、神もまた、この土地を喜ぶとするなら、神の喜びが、神を夫の立場に置いている、とも理解できます。
 
イスラエルの地に住まう民が、神との適切に関係に入るという目的を、それはよく表しています。つまり、イザヤはここで、イスラエルの土地をひとの舞台として、そこに戻ってきた人々が協力してなんとか立ち直っていくストーリーを演じる物語を始めているわけです。こうして、イスラエルが復興していく姿を見てもらおうとするのでしょう。
 
ふだんの私たちの聖書の読み方に、また新たな視点をもたらしてくれるような気がします。異なる趣により聖書が、また新たな光の中で生き生きと感じられてきます。そこに、私という小さな人間が参与します。このシオンの丘が神の国を象徴しているとするならば、私はその舞台に、いつか立てるでしょうか。もちろん、端役で結構です。


Takapan
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