預言の中の「わたし」とは誰か

チア・シード

イザヤ61:4-11   


「わたし」と称する者が誰であるのか、預言の中で瞬時に移りゆきます。そもそも古代の文献には、句読点がなく、文の切れ目が分かりません。ギリシア語だと、単語と単語の切れ目もないとなると、区切り方により文意が変わるという事態もありました。読み書きは特殊な能力であったのもうなずけます。それでも、その書き方で伝わっていたわけです。昔の読み手は、これで読めていたことになります。
 
イザヤ書のこの場面の前に60:22で「わたし主」と発言を閉じた預言書は、直後に「わたしの」の上に主なる神の霊があると言っています。「わたし」は主により油注がれているとしているので、特殊な立場の主体です。また、ここの文頭は、新共同訳では分かりませんが、「神の霊」です。あの苦難の僕の記事と連関させているのではないかと推測されます。
 
傷つき、破壊されたイスラエル、エルサレムを立て直す時が来る。その時が今訪れたのだとして、イザヤは復興の幻を描きます。もしかするとそれはいま目の前で起こっていることの描写であるかもしれませんが、設定としては預言あるいは予言です。但しそこには異邦人が関わります。イスラエルは異邦の人々により支えられ、回復されるというのです。
 
イスラエルは十分嘲りを受けたから、十分喜びも与えられるでしょう。それにしても一体何度、イスラエルは神と契約を結び直せばよいのでしょう。今回もまたとこしえの契約だと書かれています。とこしえが度々更新されているのを見ると不思議な気持ちになります。
 
ここで「わたし」が再び主を表すように戻っていて、構成が分からなくなります。さらに主によって喜び楽しむ「わたし」がそこにいます。神にあって心弾む「わたし」がいます。救いの衣を、正義の晴れ着をまとう「わたし」です。それは婚姻の姿です。
 
61:10,11で新共同訳が「恵み」と訳している語は実は「正義」という語です。61:11の「栄誉」は「賛美」のことです。詩編の賛美を思い起こさせます。どうしてこうした訳語に変更してしまったのか、よく分かりません。そしてこの「わたし」は誰でしょうか。あの苦難の僕のその後の姿であるのでしょうか。預言者自身であるようにも見えます。私たちは、あの苦難の僕についても、実のところ明確な像をもっているわけではないのです。
 
預言者の書では、つねに「わたし」の立ち位置とその正体が問われます。神になりかわり語ることがあるからです。このことは、現代にも大きく関係します。それは「説教」においてです。説教において「わたし」と説教者が語るとき、その「わたし」とは誰でしょうか。説教者個人のことでしょうか。しかし語る言葉は、神の言葉なのです。語る「わたし」が主でなければならない時もあるのです。また、それは聞く者である場合があるのかもしれません。


Takapan
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