私たちの使命

チア・シード

イザヤ61:1-3   


主が私を遣わされた。神の霊は、油注がれることによって臨んできます。だからこれは、主が主導権を以て私を遣わしたということを表しています。これを導いたのは霊です。主語が私だから、私は主に遣わされたという言い方になります。その意識が、現代人にとってはすんなり読め、理解しやすいようになっているように思われます。
 
でもイザヤは、たぶんそうは捉えていないだろうと思います。私という主語が成り立つとき、すでにそれは主の下にあり首都の関係の場が先ずあって、そこに置かれた私について言及し始めたに過ぎない、そんな捉え方をしていたのではないかと思うのです。この私のあり方というものを捉えておかないと、聖書全体を誤解してしまう虞があるような気がします。
 
イザヤ書はここから、目的としての「ため」が並ぶことになります。「わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために」、それは召命の一つの重要なポイントとして受け止められるべきではないでしょうか。
 
苦しむ人に良い知らせを伝えるため。これは宣教の中心にあるべきことです。自由を奪われている人に解放を告げるため。これは政治的なものを含め、心理的に追い込まれている人にも当てはまることでしょう。悪霊からの解放、癒しというイエスの業も、このカテゴリーで説明できる場合があるかもしれません。
 
もちろん、このイザヤの預言は、ずばりイエスのことなのだと言ってしまえばそれまでなのかもしれません。でも私たち一人ひとりがこれを受け止め、受け継いでいくことがさらに大切なのではないでしょうか。やがて来る特別な日、これを告げ知らせることで、嘆く人を慰めることも、大きな目的の一つとなります。私たちにそれはできるはずです。
 
この世で報われず、不当な扱いをされる中で喘いでいる人に平安を与えるのは難しいでしょう。でもやがて主がこの人たちに恵みを与え、敵には報復をもたらす日が来るというメッセージを、諦めずに届けるのです。悔い改めの灰は輝く王冠となり、口をついて出る溜息や嗚咽は、喜びあふれる賛美へと換わる、その良い知らせを届けるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります