復興のために

チア・シード

イザヤ61:1-3   


エルサレムは再建されるであろう。復興の預言を、いま私たちは地震や豪雨災害により壊れた町や村へ向けて告げたいと思わないでしょうか。それは主の町ではないかもしれません。しかし日本のキリスト者は、そのように叫びたいと考えている違いありません。聖書の預言は、単なる昔話ではないのです。
 
主が恵みを与える年、それはヨベルの年だと思われます。50年に一度の負債免除の年。完全数であり安息日を数える7に7を乗じた49年が完結した後、借金もチャラになる。あの律法は、申命記の時代に定まったのでしょうか。本当にそのようなことがなされたのでしょうか。私たちには少しばかり謎として残ります。
 
かつて破壊されたエルサレム神殿が建て直され、これまで悪いことをしてきた敵を踏みつけにしようと準備が調います。見よ、その日が来る。嘆く者は慰められるでしょう。悔改めのために被った灰は冠に変わるでしょう。喜びの香油の香が漂い賛美が人の心を包みます。美しい対比が並ぶ中で、力強い救いのリズムが鳴り響きます。
 
ここは第三イザヤと呼ばれる預言です。バビロンからの帰還の時はまだ再建は成っていません。しかし復興への一歩は始まりました。希望がここにあります。その希望には根拠があります。かつてイスラエルを導き真実を尽くしてきた主は、主に従う民であるならばこよなき恵みを与えてきたのです。歴史がそれを証明しているではありませんか。ただ信じているだけでもないし、目論見などでもありません。
 
私たちは被災された人々に、これと同じようなことを示して見せることはできません。傍から眺めるような冷たい態度をとるべきではありません。しかし、被災した教会と同胞に対しては、これを祈りとして伝えてもよいのではないかと思います。一つ間違えると無責任な軽々しい他人事意識の行為となりますが、信仰によるものは罪とは見なされません。
 
主の霊が私を捕らえているのならば、私は祈りましょう。主の油また聖霊を受けたならば、復興を信じ告げましょう。砕かれた魂は喜びに満たされてよいのです。不自由極まりない生活であっても、上よりの自由があってよいのです。解放されてもよいのです。主の業は、間違いなく主の出来事である。これはこれではっきり宣言します。復興のために祈り続けます。


Takapan
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